拍手の裏側

小劇場の俳優は、千秋楽の客席で一人だけ拍手をしない人を見つけた。

最前列の若い客は、膝へ両手を置き、目を伏せている。

演技が届かなかったのだと思い、最後の挨拶でその人だけを見て深く頭を下げた。

若い客も、反射的に頭を下げた。

視線が重なった瞬間、二人の魂が入れ替わった。

客席の灯りが点くまで戻れない。

俳優の体に入った客は、舞台の中央で動けなくなった。

何百もの顔。

熱い照明。

拍手が壁のように胸へ押し寄せる。

俳優が自信満々に見えたのは、怖くないからではない。

怖さを台詞のリズムへ変え続けていたからだった。

客の体に入った俳優は、拍手をしようとして手が動かないことに気づいた。

指の関節が痛み、強く打てない。

さらに、周囲の音が一度に入りすぎて、呼吸が浅くなる。

若い客は演技を嫌ったのではない。

感情が大きく動くほど、体が固まり、声も拍手も出なくなる人だった。

舞台では共演者が俳優の異変を心配している。

客の魂は、俳優の口でようやく言った。

「今日は、少し待ってください」

拍手がゆっくり止まった。

静かになった劇場で、客は一度息を吸い、自分の言葉で続けた。

「拍手できない人にも、届いていることがあります」

客席の俳優は、自分へ向けられた言葉だと分かった。

若い客の体で、膝から片手を持ち上げた。

手を打つ代わりに、胸の前で小さく握る。

それが本人なりの「よかった」の合図だった。

客席の灯りが点き、二人は元へ戻った。

終演後、俳優は出口で客を待った。

「何がよかったですか」

以前なら「楽しめましたか」と聞き、肯定を求めただろう。

客は時間をかけ、

「最後の場面で、台詞を言わない時間」

と答えた。

次の公演から、劇場は拍手以外の感想カードを用意した。

丸を付けるだけでも、白紙でもよい。

俳優も、静かな客を失敗の証拠と思わなくなった。

客は何度か劇場へ来た。

毎回拍手はしない。

ただ終演後、胸の前で片手を握る。

舞台からその小さな合図を見つけると、俳優は大きな拍手とは違う温度で、確かに届いたと知ることができた。