拍手を忘れたメトロノーム
早瀬琴音は、舞台に立つと最初の一音が出なくなる。
音大を卒業し、ピアノ講師をしながら何度も演奏家のオーディションを受けた。練習室では弾ける。けれど審査員を前にすると、十年前の発表会で演奏を止めた記憶が蘇り、指が鍵盤の上で固まった。
音羽奏汰は、いつも一音だけ口笛を吹く時計職人だった。
工房に入ったときも、琴音が事情を話している最中も、ラの音を短く吹く。白いベストのポケットには、時計ではなく小型のメトロノームが入っている。
「音程より間です」
「さっきから同じ音、少し低いですよ」
「だから間を聞いてください」
奏汰は、発表会でも使ったメトロノームを分解した。振り子は十年前のテンポで止まり、内部に会場の沈黙が巻き付いている。
修理台で振り子が動く。
十二歳の琴音が舞台へ出る。弾き始めて三十秒、照明が消えた。真っ暗な客席。天井の空調まで止まり、ピアノの音も消え、誰も声を出さない。
琴音は、その沈黙を失敗への失望だと思ってきた。
奏汰がラの口笛を吹く。記憶の暗闇で、別の音が浮かんだ。舞台袖から「停電です」と知らせる声。客席で誰かが「大丈夫」と言い、続いて一人、二人と手拍子を始める。非常灯が点くまで、会場全体が一定の拍を刻んでいた。
「拍手、されてた」
「演奏の後じゃない。でも、あなたを一人にしないための音です」
照明が戻ったあと、幼い琴音は泣いて退場した。その先を奏汰は修理しなかった。
「最後まで見なくていいんですか」
「失敗の完結より、再開できた間の方が必要」
奏汰はメトロノームの目盛りに、細い銀線を一本加えた。次に恐怖で止まったとき、七秒だけ手拍子の記憶が鳴るという。
翌日のオーディション。琴音は鍵盤の上で固まった。胸の中に、暗闇と手拍子が戻る。一拍、二拍、三拍。七秒目に、自分で最初の音を置いた。
結果はまだ出ていない。
ただ、店へ報告に行くと、奏汰はいつものラを吹かなかった。代わりに七秒の沈黙を置き、頭を下げる。
「音程より間です」
その沈黙は欠けた音ではない。琴音が続きを弾くために、最初から空けてあった一小節だった。