星船の手動扉

海老沢未明が生まれた星間船では、人間は歩く必要がなかった。床が運び、腕が持ち上げ、AIが考える。骨折を防ぐため運動は映像の中だけで行われ、筋力の強い人間は野蛮だと笑われた。

健康検査では、未明の筋肉量は毎年《過剰》と表示された。母は将来の交友評価に響くと心配し、運動補助を切る遊びをやめさせようとした。未明も人前では力を隠した。重い物を持てば、機械に任せられない未熟者だと笑われたからだ。

未明だけは、古い探検ゲームが好きだった。画面の指示に合わせ、自分の体でしゃがみ、押し、引いた。母は「役に立たない遊び」と言った。

航海百八十七年目、居住区で火災が起きた。防火扉は閉じたが、母のいる診療室だけが隔離側に残った。自動開閉系は熱で停止し、扉には手動輪が現れた。

放送が回し方を説明した。誰も近づかなかった。輪は人間三人分の力を想定しているのに、三人集まっても動かせない。

未明は両手をかけた。肩が裂けるように痛んだ。ゲームなら赤い警告が出て中断されるところだった。現実には中断ボタンがない。

一度目は滑った。二度目は吐いた。三度目、見ていた子どもが背中を押した。老人も輪に手を添えた。少しずつ扉が開き、母が煙の向こうから這い出した。

救出された母は、娘の腕が壊れたことを自分のせいだと泣いた。未明も、扉を開けなければよかったと思う夜があった。英雄という言葉は、痛みを軽くしてくれない。だが母が毎朝髪を結んでくれるたび、助かった人生が新しい手間として続いているのを感じた。

未明の肩は二度と完全には上がらなくなった。

事故調査では、人間の身体能力を維持する案も出たが、負傷率が上がるとして却下された。未明は、自分の傷が「非効率の証拠」に使われることへ怒った。危険を美化したいのではない。危険がゼロにならない以上、選択肢まで失わせてほしくなかった。

事故後、船の評議AIは手動装置を廃止し、二重自動化を進めた。未明には英雄表彰と、生涯介助権が与えられた。

「これでもう、誰も力を使わなくて済みます」と船長は言った。

未明は表彰式のあと、子どもたちを広場へ集めた。床の搬送を止め、自分の足で十歩だけ歩かせた。転ぶ子も、泣く子もいた。

母は上がらない娘の腕を支えた。

「役に立たない遊びじゃなかったね」

未明は首を振った。

「役に立つ日が来ないほうがよかった。でも、来たとき誰も動けないのは、もっと怖い」

星船に、遅い足音が増え始めた。