最後に触れた場所
羽柴リツは空中城から落ちながら、転移先一覧を開いた。
《接触転移》
最後に素手で触れた登録物へ移動します。
転移先は《王座の石柱》だけ。城が崩れた今、戻っても一緒に落ちる。ログアウト不能の世界で唯一頼れる移動技能が、最後には役に立たなかった。
落下まで十五秒。
リツは一覧の下に、灰色の項目があることに気づく。
《登録物:名称未設定》
《接触時刻:初回接続の三秒前》
《所在:ワールド外》
ログイン直前に何へ触れた。
接続椅子、ヘッドギア、机。どれも手袋越しだった。素手で触れたものは一つだけ。出勤する妻が差し出した手を、リツは眠そうに握った。
「行ってらっしゃい」
その直後、接続事故が起きた。妻の手は、この世界に入る前の最後の接触だった。
灰色項目を選ぶと警告が出る。
《対象は移動物です。現在座標を取得できません》
《追跡転移を実行しますか》
妻は今も同じ場所にいない。三年経っている。けれど技能は「場所」ではなく「登録物」へ移動する。彼女がどこにいても、手を目標にできる。
リツは実行を押した。
落下が止まり、世界が細長く伸びる。空中城、雲、海、星空を抜け、暗い病室へ近づいていく。ベッドの脇で眠る女性がいる。彼女の手は、痩せたリツの現実の手を握っていた。
転移先が更新される。
《名称未設定》から《羽柴澄の右手》へ。
リツの意識がアバターを離れ、握られている身体へ戻る。指先がわずかに動く。妻が目を覚まし、息を呑んだ。
「ただいま」と言いたかったが、声は出ない。代わりに指で、三年前の握手を返した。
妻の手は三年間、毎日同じ時刻に彼へ触れていた。技能欄の接触時刻が密かに更新され続けていたから、灰色の項目は消えなかった。リツが最後に触れた相手であると同時に、彼へ最後まで触れ続けた相手でもあった。
待つことも、触れることだった。
《ワールド外登録物への追跡転移に成功しました》
《接触転移先:現実世界》
《ログアウトではありません――最後に触れた人のもとへ、帰還しました》