未来の自分におつなぎします
唐木田央路は、息子が生まれた夜、病院の裏にある公衆電話から自宅へかけた。
妻と子は産科病棟にいる。自宅に誰もいないことは分かっていた。
央路の父は、央路が五歳のとき家を出た。理由は知らない。母は「弱い人だった」としか言わなかった。自分の腕に赤ん坊を乗せた瞬間、同じ弱さが血の中から起き上がった気がした。
受話器の向こうで、六十四歳の央路が出た。
「未来の自分におつなぎします」という小さな表示が、電話機の上で光っている。自分の番号を回すと、三十年後の同じ自分につながるらしい。
「もしもし」
『遅かったな』
声は父に似ていた。
央路は病室から逃げてきた。泣き続ける赤ん坊を抱いた瞬間、これから何十年も誰かの父親でいる重さに耐えられなくなった。
「俺、ちゃんと父親になる?」
『ならない』
即答だった。
「ならないのか」
『ちゃんと、にはならない。怒鳴るし、約束を忘れるし、運動会の日を一度間違える』
「最悪だな」
『息子にも言われる』
未来の央路の向こうで、機械音が鳴った。病院のようだった。
「息子は今、どこにいる」
『ここ。俺の手を握ってる』
「病気なのか」
『俺がな』
央路は受話器を強く握った。
「俺は、今夜逃げるかもしれない」
長い沈黙のあと、未来の央路が息を吐いた。
『知ってる。病院の裏まで逃げた』
「そのあと?」
『戻った』
「どうして」
『電話の向こうの俺が、戻れと言ったから』
円を描くような答えだった。
公衆電話の残り時間が点滅する。十、九、八。
未来の央路が言った。
『父親になるんじゃない。今夜、あの部屋へ戻る。それを何度もやるだけだ』
「三十年、毎日?」
『逃げる日もある。戻る日を一日多くしろ』
通話が切れた。
央路は病棟へ戻った。
妻は眠り、透明なベッドの中で息子が泣いている。看護師が抱き上げようとしたが、央路は首を振った。
「僕が」
腕に乗せると、やはり重かった。
三十年分ではない。今夜一晩ぶんの重さだった。
息子は泣き止まなかった。
央路も少し泣きながら、朝まで何度も廊下を往復した。