本名の木札

槻原冬馬は大学のデジタルアーカイブ室で、夜守山の奉納木札を撮影していた。禁足社から回収された木札には、名前ではなく「長男」「旅人」「帰らぬ者」といった役割だけが墨書されている。教授の指示書には一つの禁止事項があった。

《禁足社の木札には本名を書いてはいけない》

木札の撮影番号は百四十まであるのに、台帳の奉納者は百三十九人だった。欠番の札だけが無地で、木目が指紋のように冬馬の親指と一致した。冬馬は墨のにじみを補正するため、同じ材質の無地札で撮影基準を作ることにした。適当な文字では筆圧が変わる。そう考え、自分の氏名を一度だけ書いた。

《槻原冬馬》

シャッターを切ると、モニター上で文字が《帰らぬ者》へ変わった。画像管理ソフトは自動で人物タグを付け、顔のない木札を冬馬本人として分類した。過去の家族写真にも同じ札が検出され、幼い冬馬の立っていた位置と重なっている。肉眼では本名のままだった。裏返すと、撮影していないはずの裏面に住所と生年月日、血液型まで刻まれている。

教授は青ざめ、札を封筒へ入れた。封をした直後、内側から墨の乾く匂いがし、冬馬のスマートフォンへ《奉納を受け付けました》と通知が出た。「焼くな。返しに行く」と言ったが、その夜から連絡が取れなくなった。研究室の入館ログでは、教授は夜守山禁足社へ「出勤中」になっている。

冬馬は木札を探した。封筒も写真データも消えていた。代わりに行政手続きアプリから通知が来た。

《転出届を受理しました》

申請した覚えはない。転出元は冬馬のアパート、転出先は《夜守山禁足社・奉納庫》。世帯主は《山守》。続柄は《帰らぬ者》。

取り消しを押すと、本人確認の質問が出た。

《あなたの本名を入力してください》

冬馬は入力しかけて手を止めた。すでに一度、木札へ書いている。空欄のまま閉じると、アプリから郵便物の画像が届いた。

宛名は「夜守山様方 槻原冬馬殿」。

種別は転入歓迎通知。

配達状況は《本人へ手渡し済み》

玄関ポストの内側から、木を引っかく音がした。

スマートフォンが最後の確認を表示した。

《現在の住所を「自宅」に設定しました》

地図の家アイコンが山へ移動し、冬馬の部屋は《旧住所》になった。