本棚のない引っ越し
柳瀬佳乃の新しい部屋には、本棚を置ける壁がなかった。
窓と収納と扉で、四方が細かく切れている。今の部屋にある三本の本棚は、どれも入らない。
引っ越しの申込書には、運ぶ家具を書く欄がある。佳乃は「本棚三台」と記入したまま、先へ進めずにいた。
本は七百冊近くあった。読んだ本、まだ読んでいない本、もう内容を思い出せない本。友人には「広い部屋を探し直せば」と言われた。佳乃も、二十九歳の引っ越しで大切なものを置けない部屋を選ぶのは間違いだと思った。
けれど新しい部屋を好きになったのは、壁ではなく窓だった。朝、向かいの公園を走る人が見える。家賃が下がるぶん、遠くの町へ出かけられる。部屋を本の倉庫にしない生活を、一度してみたかった。
机には二枚のリストがある。〈運ぶ本〉四十冊と、〈手放す本〉六百冊余り。後者は何度数えても減らなかった。
佳乃は近所の小さな私設図書室へ電話した。寄贈を受け付けると聞き、箱の数を尋ねられた。
「たぶん、二十三箱です」
声にすると、胸の中で棚が倒れるような音がした。
本を手放しても、読んだ時間までなくならない。そう言い切る自信はなかった。後悔して買い直す本もあるだろう。
佳乃は引っ越し申込書の「本棚三台」を二重線で消し、「小箱二箱」と書いた。四十冊は、その中へ入るだけにする。
仕分けの途中、昔の友人の書き込みがある詩集や、途中で読むのをやめた長編が出てきた。佳乃は一冊ごとに過去を審査することに疲れ、残す基準を〈もう一度読みたいか〉だけに変えた。思い出があるかではない。思い出を保管する役目を、すべての本へ負わせないことにした。
寄贈した本が誰にも読まれず処分されることもある。それでも佳乃は、所有し続けることだけを愛情の形にしないと決めた。
空いた床に立つと、佳乃は軽さより心細さを感じた。その感覚も、新居で読む最初の一頁にする。
最後の一冊を選び終え、新しい部屋の間取り図に小さな丸を描いた。そこへ椅子を一脚だけ置く。棚のない窓辺で、次の本を読む場所だった。