朱検の一行

戚無涯が懐へ入れていた紙は、白紙だった。

折り目も透かしもない。火へかざしても、酢へ浸しても文字は出ない。密書はまだ存在していなかった。敵の検問官に作らせるための紙だった。

北軍では、通行文書を調べた場所ごとに朱印を押す。雁門は鳥、石門は亀、南柵は欠け牙の虎。どの印が押されたかで、守将がどこへ兵を集めたか分かる。今夜だけ、南柵の虎印を持つ鄒元魁が精兵二百を連れて北へ出るという噂があった。噂を証に変え、城内へ届けるのが無涯の役目だった。

彼は薬売りを装い、わざと南柵へ向かった。

鄒元魁自身が机に座っていた。

「文書を出せ」

無涯は白紙を差し出した。

「母の遺言です」

「何も書いてない」

「母は字を知りません」

元魁は紙を火へかざし、水を垂らし、爪で剥いだ。何もない。

「白紙を遺言と言う理由は」

「言わなかったことの方が多い女でした」

元魁は無涯の薬籠を蹴り倒した。乾草と小瓶が散る。兵が一本ずつ割った。毒も紙も出ない。

「こいつを北の労役へ送れ。通過印を押しておけ」

書記が虎印を取り上げた。だが無涯は気づいた。印の右牙が欠けていない。替え印だ。本物は別の場所にある。噂は外れた。

無涯は紙を引っ込めた。

「遺言へ役人の朱をつけるな」

元魁の目が据わる。

「押せ」

書記が腕を掴む。無涯は抵抗し、机を倒した。元魁が苛立って自分の腰袋から小さな印を出した。右牙の欠けた本物だった。

「これなら文句はあるまい」

朱が白紙へ食い込む。

それが欲しかった。元魁本人と本物の虎印が南柵にある。精兵二百も、まだここにいる。城内へ伝えるべきは、攻めるなという命令だった。

無涯は北の労役列へ繋がれたあと、夜の崖道で足を滑らせたふりをした。護送兵ごと斜面へ落ち、縄を岩で切る。左肩は外れたが、紙は濡らさなかった。

崖を落ちた無涯の背には石片が食い込み、白紙の端にも血がついた。だが朱印の欠け牙だけは潰れていない。文字のない紙へ、敵が自分の居場所と時刻を書き込んだ。どんな名文より正確で、書いた本人だけが意味を知らない一行だった。

城の排水口で、陸承謨が朱印を見た。

「欠け牙が南にいる」

「今夜の出撃は罠だ」

承謨は予定表を火へ入れた。

「全隊へ中止を伝えろ。南門は閉じたままにせよ」

櫓の上に、出撃中止を示す黒旗が真っ直ぐ上がった。