柚子湯の哲学者
瀬田川珠緒は、郊外の温浴施設で働いている。
受付、清掃、忘れ物の対応。週末には、隣接する小さな動物園からカピバラが温泉へ来る催しもある。
客は湯に浮かぶ柚子と、のんびりした動物を見て「癒やされる」と笑う。珠緒はその横で、時間を確認し、床の水滴を拭き、次の案内を急いだ。
カピバラの柚子丸は、湯に入っている間だけ心で話す。
『急いでいる』
「仕事中だから」
『湯は逃げない』
「お客さまは待つ」
『待つために来ている者もいる』
柚子丸は目を閉じ、鼻だけ湯の上へ出した。
珠緒は会話を誰にも言わなかった。
疲れているだけかもしれない。でも柚子丸の言葉は、湯の波紋のように胸へ広がった。
ある日、案内の順番を間違え、二組の客を少し待たせてしまった。
すぐ謝り、皆も笑ってくれた。それでも珠緒は休憩を削り、遅れを取り戻そうと走り回った。
閉館後、カピバラの浴槽を洗いながら、何度も場面を思い返す。
柚子丸が飼育員と一緒に戻ってきた。
湯は抜いてあるのに、空の浴槽へ入り、座る。
「今日はもう終わりだよ」
『お前が終わっていない』
「私は大丈夫」
『湯は、誰の失敗も覚えない』
「でも人は覚える」
『なら、温めて薄めればよい』
飼育員が「少し足湯していけば」と、清掃用に残していた湯を桶へ入れてくれた。
珠緒は制服の裾を上げ、足を浸した。柚子丸は隣の空浴槽から、同じ顔で見ている。
湯へ柚子の皮を一片落とすと、明るい香りが立った。
「今日、待たせた」
『待った者は、そのあと湯に入った』
「怒ってなかった」
『なら、お前だけがまだ浴槽の外だ』
珠緒は息を吐いた。
足先の冷えがほどけ、肩まで少し軽くなる。時計を見ずに五分座ると、閉館後の施設は驚くほど静かだった。
次の催しの日、珠緒は案内を一組ずつ、ゆっくり行った。
子どもが柚子丸を見て、「何を考えてるのかな」と訊く。
珠緒は笑った。
「たぶん、急がなくていいって」
柚子丸が湯の中で鼻を鳴らす。
『少し違う』
「何て?」
『今日は柚子が多くてよい』
湯気に柑橘の香りが満ち、客の笑い声が柔らかく反響した。
珠緒は濡れた床をすぐには拭かず、まず一度、温かな空気を胸いっぱいに吸い込んだ。