橋の中央の封筒

藍原芙由は、別れた恋人の合鍵を、三か月鞄に入れたままだった。返そうとすると言葉が必要になる。郵送すれば冷たすぎる気がする。会えば、もう一度話し合うことになるかもしれない。

鍵は小さいのに、鞄を右肩へかけるたび、そこだけ重かった。

二人で選んだ部屋には、もう彼だけが住んでいる。芙由は新しい部屋を借りたが、食器を最低限しか出していない。いつでも戻れるようにしているのか、いつでも逃げられるようにしているのか、自分でも分からなかった。合鍵は、関係より先に返せるはずのものなのに、最後の会話の代わりになっていた。

残業の帰り、川沿いの歩道橋を渡る。風が強く、手すりが低く鳴っていた。橋の中ほどへ来たとき、その音が言葉に変わった。

「捨てられないなら、持つ手を変えられますか」

芙由は足を止めた。川面には街の灯りが長く揺れている。

「捨てろってこと?」

橋は答えず、手すりをもう一度鳴らした。

「真ん中まで、反対の手で持ってください」

まだ真ん中ではなかったらしい。芙由は鞄を右肩から下ろし、左手で持った。歩くたび、入っている鍵が今までと違う場所へ当たる。左腕は慣れない重さですぐ疲れた。持ち方を変えただけで、荷物そのものは減らない。それでも右肩に残った空白へ風が入り、いつもの痛みが自分の輪郭から少し離れた。財布、化粧ポーチ、社員証。鍵だけが重いのではなく、ずっと同じ持ち方をしていたのだと気づく。

橋の中央には、小さな郵便ポストがある。観光客向けの絵葉書用で、最終回収は明日の朝。芙由は鞄から、何度も書き直した封筒を取り出した。中には合鍵だけがあり、便箋は入れていない。

スマートフォンが震えた。元恋人から〈近いうちに話せる?〉。心臓が、返事を知っているように強く鳴る。

芙由は画面を伏せた。話すかどうかは、鍵を返したあとで決めてもいい。返すことと、許すことも、忘れることも同じではない。今夜すべてを終わらせる必要はない。

封筒を左手から右手へ持ち替える。赤い投入口の前で一度だけ重さを確かめた。

それから、何も書き足さないまま、封筒を落とした。底に触れる乾いた音が、川の流れより先に届いた。