死角に残った手話

増谷実花の手は、「見えない」ではなく「隠した」と動いていた。

宮守柚季警部補は、通訳の早瀬を見た。

「彼女は、よく見えなかったと言っています」

早瀬は音声記録へ向けて訳した。

違う。

実花は聴覚障害があり、拘置前手続の待合室で、壁の監視モニターを見ていた。隣室では男性が警察官に押さえつけられ、意識を失った。その場にいた警察官のボディーカメラ映像は、翌朝までに消えている。実花だけが、モニターに一度映った映像を見た可能性があった。

柚季は弟と話すため、子どもの頃から手話を使える。資格はない。だから面接では、県警登録通訳の早瀬を通すよう命じられていた。

実花の手が続く。

――男の胸のカメラを、背の高い警察官が手で覆った。そのあと、首を押した。

早瀬は訳した。

「画面が暗くなり、その後は分からないそうです」

柚季は録音を止めた。

「今の訳は違います」

早瀬の指が固まった。観察室には岩室警務部長がいる。背が高く、当夜、拘置区画へ立ち入った記録がある人物だった。

「専門通訳は私です」

早瀬は小声で言った。

「地域差のある表現です」

「『覆う』と『暗い』は別です。『首』も省きました」

「あなたが口を挟めば、誘導面接になる」

実花は二人の口元を見比べ、机を叩いた。そしてゆっくり、もう一度手を動かした。

――あの背の高い人が、今、向こうにいる。

指先は観察窓を向いていた。

早瀬は訳さなかった。

内線が鳴り、岩室の声がした。

「面接を中止しろ。通訳の適格性に問題がある」

柚季は資格のない自分の訳が、裁判で争われることを知っている。早瀬を否定すれば、県警の通訳制度そのものを敵に回す。それでも、誤訳されたまま署名を取る方が、はるかに取り返しがつかない。

彼女は録音を再開し、カメラへ向けて宣言した。

「担当者宮守は手話を理解します。通訳内容に重大な相違を認めたため、原表現を映像で保存します」

早瀬が立ち上がる。柚季は実花へ、ゆっくり手話で伝えた。

――もう一度、あなたの言葉で。

実花がうなずいた。

柚季は誤訳された調書を脇へ置き、白紙を机の中央に広げた。