母の一票は〇・一
戸崎惇平は朝食を取りながら、端末に届く市民投票へ答える。信用点数九二〇なら、一票は〇・九二票として集計される。高く信用された人ほど、社会への影響も大きい。
その日の議題は、近所の診療所を閉鎖するかどうかだった。
閉鎖すれば地域税が下がる。惇平は広告の試算を見て、《賛成》を押した。
向かいに座る母の香与は、《反対》を選んだ。
「月に二回、あそこへ通ってるもの」
香与の信用点数は一〇二だった。結婚後三十年、家事と祖父母の介護をしてきたため、納税も雇用契約も自分名義ではほとんどない。公共料金は父の口座、買い物は世帯決済。何も滞納していないのに、点数を生む履歴もなかった。
「一票は一票だろ」
惇平が言うと、母は笑った。
「今は違うでしょう」
投票締切は正午。結果はすぐ出た。
《閉鎖賛成:五〇・〇三六》
《閉鎖反対:四九・九六四》
《閉鎖を決定します》
差は〇・〇七二票。
惇平の票は〇・九二。
香与の票は〇・一〇二。
二人が逆に投じていれば、診療所は残っていた。
端末は世帯別の投票傾向を表示した。
《戸崎世帯:閉鎖賛成率九〇・〇二%》
母の反対は、一割にも満たない意見として丸められていた。
「ごめん。税金のことしか見てなかった」
惇平が言うと、香与は薬の袋を畳みながら答えた。
「あなたが悪いんじゃないよ。あなたの一票でしょう」
その言葉が余計に重かった。
閉鎖後の通院先は電車で四十分。香与は膝が悪く、一人では行けない。惇平が付き添えば月二回、仕事を休むことになる。欠勤が増えれば彼の点数も下がる。
投票画面には《意思確認済み》の印があり、撤回できない。
午後、診療所から最後の予約取消通知が届いた。理由は《住民の総意》。
惇平は総意という文字を押した。内訳には自分の名前が上、母の名前が小さく下に並んでいる。
香与は端末を閉じた。
「次はちゃんと考えればいいよ」
「次」が同じ重さで数えられる保証はない。
翌朝、別の市民投票が届いた。高齢者向け巡回バスの廃止。惇平は画面を母へ渡した。
「母さんが押して」
香与が反対を選んでも、端末は顔を読み、〇・一〇二票として受理した。
惇平は投票しなかった。
結果画面では、棄権した彼の〇票より、母の一票の方が確かに大きかった。それでも、巡回バスは閉鎖賛成〇・四票差で消えた。