水槽の裏側で
真尋の休憩室は、大水槽の裏側にある。
客が見る青い海の反対側。むき出しの配管、濾過装置、餌の容器。その奥にある小さな部屋で、壁はいつも低く震えている。ポンプが水を回し、送風機が湿った空気を押し出し、天井灯が白く点いていた。
午前二時二十五分。館内は閉館している。
真尋は長靴を脱ぎ、靴下の濡れた爪先を椅子の下へ隠した。窓のない休憩室だが、隣の観察窓から水槽の青い光が一本だけ差し込んでいる。
机には子どもの絵が貼られていた。
丸い魚と、四角い魚と、青いクレヨンの波。端に「おやすみ」と書いてある。昼の見学者がスタッフへ渡したものらしい。誰が貼ったのか、真尋は知らない。
水槽の表側では、魚が泳ぐ音はほとんど聞こえない。裏側に来ると、水が濾材を通り、弁が開き、泡が砕ける音ばかりになる。美しい景色を保つための音だが、客には届かない。真尋はその騒がしさを、秘密というより生活音だと思っていた。見せる側にも、休みながら回る仕組みがある。
ポンプが回る。
冷蔵庫が回る。
水槽の中では循環流が回り続ける。
真尋はおにぎりの海苔を開いた。ぱり、と乾いた音が、湿った部屋で意外に大きかった。
先月、一緒に住んでいた友人が転勤で出ていった。部屋は広くなり、洗面所の棚も半分空いた。仲が悪くなったわけではないから、寂しいと訴える先が見つからなかった。ビデオ通話をすれば笑える。それでも切ったあと、魚のいない水槽のような静けさが残る。
観察窓の向こうを、大きな影が横切った。
夜の水槽を点検している別の飼育員だった。ライトが一度、青い水の中で円を描く。こちらに気づいたのか、光が短く二回揺れた。
真尋もおにぎりを持っていない手を上げた。
影はすぐ配管の向こうへ消えた。
返事だったかどうかは分からない。魚を驚かせないための光だったのかもしれない。
それでも青い輪はしばらく瞼に残った。
真尋は絵の「おやすみ」を見た。水槽の魚たちは眠っているのか、ただ速度を落としているだけなのか。知らなくても、夜は続く。
休憩終了の時刻になる。真尋は長靴を履き、濡れた爪先を戻した。
大水槽の裏側は一人で歩くには暗い。けれど今夜は、青い光が二度揺れた場所までなら、静かに行けると思った。