洗い桶の刃物

「刃物は洗い桶に入れないでください。手を切ります」

王宮厨房の清掃係ユースは、料理人に毎日そう注意した。

だが一流料理人ほど、自分の包丁だけは例外だと思っている。肉切り包丁、果物ナイフ、骨すき。泡だらけの桶へ放り込まれた刃を、ユースは黙って拾い、洗い、種類ごとに磁石板へ並べた。

毒見役のネリは、深夜の仕込みを監督していた。

「明朝の祝宴、失敗できません」

「床ならもう乾いています」

「料理の話です」

そこへ、遅番の料理人を装った男が入ってきた。

白衣は本物だが、靴に厨房組合の印がない。男は鍋へ近づくふりをして、袖から緑色の刃を抜いた。王族専用の遅効毒を塗った暗殺包丁である。

ネリが警鐘へ手を伸ばす。

男は先に彼女へ斬りかかった。

ユースは洗い桶から、誰かが放置した肉切り包丁を一本つまみ上げた。

刃が触れたのは一度だけ。

緑の暗殺包丁は、毒の塗られた部分だけが細かな角切りになって床へ落ちた。男の袖口、前掛けの紐、靴紐も同時に切れ、勢いのまま大袋の小麦粉へ頭から突っ込む。白い粉が爆発し、暗殺者は咳き込みながら動けなくなった。

ネリは見た。包丁を振った軌道が、王宮剣術の奥義《賽の目》そのものだった。敵軍の武器だけを千片にした伝説の剣聖ユース。公式記録では、十年前に料理の骨を喉へ詰まらせて死んでいる。

本人は暗殺者を前掛けで縛り、「不審食材」と書いた冷蔵庫脇の檻へ入れた。毒片を火箸で拾い、石灰壺へ。床の緑染みを酢で中和し、小麦粉を掃き、使った包丁を熱湯で三度洗う。

「その死亡理由、あなたが書かせたんですか」

「剣聖が厨房へ転職したでは、誰も信じませんから」

冷蔵庫脇の檻から、暗殺者のくしゃみが一度聞こえた。ネリは笑いそうになったが、ユースは無表情のまま小麦粉の使用量を帳面から差し引いた。証拠まで在庫管理の一部らしい。

ユースは乾いた包丁を磁石板へ戻した。祝宴用の鍋は無事で、床にも毒にも痕跡はない。

ネリが興奮して桶へ手を入れかけると、彼は冒頭と同じ真剣な声で止めた。

「刃物は洗い桶に入れないでください。手を切ります」