浴室の赤い椅子
朔美が実家の浴室へ入ると、赤い介助椅子が置かれていた。
父が退院する前日。兄は説明書を朔美へ渡し、「明日から風呂、頼むな」と言った。
「どうして私?」
「俺が親父を裸にするのは、ちょっと無理だろ。お前は娘だし」
兄は赤い椅子の購入までは手伝った。だが箱を開けると、「あとは頼む」と帰ろうとした。道具を買った人ではなく、最後に浴室へ残った人が担当になる。家族の介護は、そんな決まり方を繰り返していた。
朔美は説明書を開いた。椅子の高さ、滑り止め、移乗の手順。どれも一度読んだだけで安全にできる作業ではない。父は脱衣所の外で黙っている。
「私だって無理。娘だから平気になるわけじゃない」
兄は「じゃあ母さんが」と言いかけた。母は腰を押さえながら、洗面台にタオルを積んでいる。父より小柄な母に任せれば、二人とも転ぶかもしれない。
朔美は地域包括支援センターへ電話した。訪問入浴は空きがないが、男性ヘルパーによる入浴介助なら週二回調整できるという。残りの日は清拭にして、慣れるまで家族は手を出さない計画になった。
兄が費用を見て渋い顔をする。
「高いな」
「転んで再入院するより安い。兄さんと私で半分ずつ。母さんには払わせない」
父が初めて口を開いた。「知らない男に風呂を頼むのか」
朔美は赤い椅子へ手を置いた。「嫌なら、できることと嫌なことを担当者に話して。私が黙って我慢する形にはしない」
父はしばらく床を見ていた。やがて、「男の人なら、そのほうがましだ」と言った。
翌日、ヘルパーが来る時刻を冷蔵庫へ貼った。兄は初回の立ち会い、朔美は退院の迎え、母は着替えの場所を説明する。それぞれ一つずつに分けた。
帰り際、母が赤い椅子を指して「朔美が選んでくれたのよ」と父へ言った。
「選んだのは椅子だけ。お風呂の担当ではないよ」
朔美が言うと、母は少し困った顔をし、それから「そうだった」と言い直した。
赤い椅子は浴室に残った。朔美の役割だけが、そこへ固定されずに済んだ。