海のない町の砂
井波が海辺の町から転校してきた日、上履きの中から砂が出た。
靴箱で履き替えたとき、細かな白い粒が床へ落ちた。隣にいた生徒がしゃがみ込み、指で一粒つまむ。
「何これ」
「砂」
「校庭の?」
「海の」
その一言で、周りに人が集まった。
新しい学校の町には海がない。地図で見ても、電車で二時間行っても海はない。クラスメイトたちは、井波の靴の中を覗き込んだ。
「貝ある?」
「ない」
「塩の味する?」
「舐めるな」
「海の匂いは?」
「靴の匂い」
笑い声が上がった。
井波は少し腹が立った。
前の町では、砂は珍しくなかった。教室の床にも、鞄の底にも、体育着のポケットにも入っていた。風の強い日は窓を閉めても机の上がざらついた。
嫌になるほど身近だったものが、ここでは宝物のように扱われる。
担任が来て、掃除をするよう言った。
井波が箒を取りに行く間に、砂は紙の上へ集められていた。誰かが理科室からルーペまで持ってきた。
「捨てるよ」
「もったいない」
「まだ家にいっぱいある」
「家に海あるの?」
「ないけど、荷物に入ってる」
「砂を引っ越しさせたの?」
井波は答えなかった。
昨夜、段ボールを開けたとき、浜で使ったタオルから砂がこぼれた。母親は掃除機で吸おうとしたが、井波はなぜか止めた。そのまま上履きを置いたから、入り込んだのだ。
紙の上の砂を、小さな薬包紙へ包んだ。
昼休み、窓際の机で開く。
白い粒の中に、黒いものや透明なものが混じっている。ルーペで見ると、全部形が違った。
「海って、どんな音?」と隣の生徒が訊く。
「うるさい」
「ずっと?」
「ずっと」
「いいな」
「夜は怖いよ」
「それでも聞きたい」
井波はスマートフォンの録音を探した。
引っ越し前日、浜で録った三十秒。風が強すぎて、波の音は割れている。遠くで友達が「もう帰るぞ」と叫ぶ声も入っていた。
二人で片耳ずつイヤホンを使った。
再生が終わっても、隣の生徒はしばらく黙っていた。
放課後、井波は砂の包みを靴箱の奥へ置いた。
捨てるつもりだったが、明日また見せてと言われた。
海のない町で最初にできた約束は、海を見に行くことではなかった。
靴の中からこぼれた、ほんの一つまみの海を、もう一度一緒に開くことだった。