海抜三十階の故郷
朽木良平の故郷は、海面下二十七メートルにあった。
気候災害で沿岸の町が沈んだとき、住民は内陸の高層都市へ移った。不死者だった良平は、それから二百四十年、毎年同じ日に潜水服を着て古い家へ帰った。
瓦屋根へ補強材を塗り、割れた窓を透明樹脂で塞ぎ、仏壇の代わりに家族写真を壁へ固定した。両親も兄弟も生きていたが、誰も潜らなくなった。
「もう家じゃない」と兄は言った。
「だから家にしておくんだ」
現在の住まいは海抜百二十メートル、三十階の一室だった。窓から安全な防潮壁が見え、室温も潮の匂いも自動調整された。良平はそこで眠るたび、守られているのではなく、故郷から高く吊られている気がした。
良平は海底の茶の間に座り、酸素音を聞きながら弁当を食べた。窓の外を魚が横切った。町の道路標識には珊瑚が生え、学校の校庭は砂地になっていた。
二百四十一年目、大型台風で補強材が剥がれた。その日は、町が沈んだ日と同じ進路図だった。良平は、海が二度目の立ち退きを命じに来たように感じた。潜ると、屋根は半分崩れ、茶の間へ海水が流れ込んでいた。壁の写真には貝が張りつき、母の顔を隠していた。
良平は修復材を取り出した。いつもなら一日で塞げる穴だった。
そのとき、崩れた窓から小魚の群れが入り、茶の間を一周して出ていった。床の畳には海草が揺れ、柱の陰で蛸が卵を守っていた。
良平は修復材を戻した。
代わりに玄関の表札だけを外し、海底用の石板へ町名と家族の名前を刻んだ。家を保存するのではなく、ここに家があったと残すことにした。
帰還すると、兄が珍しく港で待っていた。
「直せた?」
「直さなかった」
良平は表札を見せた。兄は長く黙り、指で古い傷をなぞった。
翌年、良平は一人で潜らなかった。沈んだ町を知らない子どもたちを連れ、珊瑚礁になった通学路を案内した。
「ここが僕の家だった」
過去形で言うと胸が痛んだ。だが、その痛みの奥に、海へ渡した場所が今も別の命を育てている安堵があった。
故郷は戻らなかった。良平の帰る場所だけが、ようやく未来へ開いた。