海老しんじょが浮くころ
店主が椀物の鍋を洗おうとしたとき、若い客が閉店間際の戸を開けた。脇には丸めたトレーシングペーパーを抱えている。
「軽いもの、まだありますか」
「海老しんじょなら、一椀」
店主は鍋の出汁を温め直した。
透明な出汁の中へ白いしんじょが落ち、しばらく底に沈んだ。小さな泡が周囲へつき、やがてふわりと浮かぶ。椀の蓋を開けると白い湯気がほどけ、柚子の皮と海老の甘い香りが立った。蓋を置く音が、静かなカウンターに丸く響いた。
客は設計事務所に入って二年目だった。今日の打合せで、自分が描いた階段の案を出すつもりだった。けれど先輩たちの話が速く、図面を広げる間を失った。会議の終わりに所長が「若手から何かある?」と聞いたときも、首を振った。
帰社後、同じ案に似たスケッチを先輩が描き始めた。客は何も言えず、自分の紙を丸めた。盗まれたわけではない。見せてもいないのだから、存在しなかったのと同じだった。紙の端には、会議中に握った指の跡が薄く残っていた。
しんじょへ箸を入れると、表面がやわらかく割れ、中から刻んだ海老の桃色が見えた。
「沈んでたのに、浮くんですね」
店主は鍋の火を止めながら答えた。
「浮いてきたら食べ頃」
出汁は薄く、柚子の香りだけが鮮明だった。しんじょは頼りなく見えて、噛むと海老の弾力が返ってくる。客は丸めた紙を少しだけ広げた。折り目はついているが、線は消えていない。
明日の朝、所長の机へスケッチを置くことにした。付箋には、《昨日出せなかった案です。五分だけ見てください》と書く。先輩の案と重なっていることも、描いた日時が分かるファイルを添えることも決めた。
採用される保証はない。遅いと言われるかもしれない。次の会議で声が出るようになるわけでもない。それでも、自分の線を沈めたまま鍋ごと捨てるのはやめる。
最後の一口を飲むと、薄い出汁の奥から海老の甘さが戻った。椀を置いたあとも、柚子の温かい香りが鼻の近くに残っていた。