温めますか
「温めますか」
円は一度、首を横に振りかけた。
午前一時のコンビニ。かごの中には小さなパスタと水だけ。引っ越して一週間、円は毎晩ここで夕食を買い、毎晩「結構です」と答えていた。
新しい部屋には電子レンジがない。
以前の部屋にはあった。正確には、同居していた人のものだった。食器も炊飯器もソファも、二人で使っていたようでいて、別れるときには所有者がはっきり決まった。円の側に残ったのは、鍋一つと電気ケトルだけだった。
「温めますか」
店員がもう一度聞いた。
円が黙っていたからだ。
「お願いします」
声にすると、思ったより簡単だった。
店員はパスタのフィルムを少し開け、電子レンジへ入れた。扉が閉まる。数字が点灯する。
二分三十秒。
容器が回る。
透明な扉の向こうで、白いソースの面が光を反射し、見えなくなり、また現れる。
円はレジ脇で待った。
空調が頭上から一定の風を落とす。入口の自動ドアが開き、夜の湿った空気が一度入り込む。新しい客がかごを取り、床へ靴音を置いていく。
残り一分四秒。
冷蔵ケースのモーターが止まる。
店が急に静かになる。
その静けさの中で、別の通路から缶が棚へ戻される音がした。買おうとしてやめた人がいるらしい。
残り十秒。
円は数字を数えなかった。
電子レンジが鳴り、店員が容器を取り出す。袋の底へ厚紙を一枚敷き、傾かないように入れてくれた。
「熱いのでお気をつけください」
決まり文句だった。
「ありがとうございます」
円も決まり文句で返した。
店を出ると、袋の底から温かさが掌へ伝わった。
部屋に戻り、円はテレビをつけなかった。床へ座り、鍋を机代わりにしてパスタを食べる。湯気が暗い窓へ薄く映った。
誰かと分ける食事ではない。誰かの電子レンジを借りたわけでもない。店の機械に二分三十秒回してもらっただけだ。
それでも、冷たいまま食べるしかないと思い込んでいたのは自分だった。
円は最後の一口まで、温かいうちに食べた。
今夜の部屋なら、音がなくても大丈夫だった。