湯のみを返す

乃亜の食器棚には、母専用の湯のみがあった。

白地に藍色の椿。母が毎週日曜に来るたび、自分で戸棚から出し、自分で茶を入れる。合鍵で入ってきた日も、乃亜が昼まで寝ていた日も、同じ場所から同じ湯のみを取った。

今週の日曜、乃亜はそれを新聞紙で包んでいた。

チャイムが鳴る。今日は鍵を替えたので、母は玄関の外に立っている。

「どうして開かないの。私よ」

「今、開ける」

扉を開けると、母はスーパーの袋を二つ提げていた。長ねぎ、豆腐、洗剤、母が選んだ下着まで透けて見える。

「冷蔵庫、空でしょう」

「買い物は頼んでない」

「どうせ何も食べてないと思って」

「今日は上がらないで」

母の視線が、乃亜の手元の包みに落ちた。

「何それ」

「湯のみ。返す」

「そこに置いておけばいいじゃない」

「置かない。これがあると、毎週来る前提になるから」

母は笑おうとして、うまく笑えなかった。

「親が娘の家に来るのに、いちいち許可がいるの?」

「いる」

「家族なのに?」

「家族でも」

廊下の非常灯が、母の頬を青白く照らしている。乃亜は包みを差し出した。母はスーパーの袋を持ち替えようとせず、受け取らない。

「私の居場所をなくすのね」

「私の家から、勝手に決めた居場所をなくすの」

「同じことよ」

「違うよ。会わないとは言ってない」

乃亜はスマートフォンの予定表を見せた。

「来月の第二日曜、駅前でお茶しよう。二時から一時間」

「一時間だけ?」

「最初は」

母は予定表と包みを交互に見た。やがてスーパーの袋を床へ置き、湯のみを受け取った。

新聞紙の中で、陶器がかすかに鳴る。

「この食材は?」

「持って帰って」

「重いのよ」

「下まで一緒に持つ。でも、部屋には入れない」

母は返事をしなかった。エレベーターまで並んで歩く。乃亜は袋を一つ持ち、母はもう一つと湯のみを抱えた。

一階に着くと、母が言った。

「駅前の店、椿の湯のみを使ってるところがあるわ」

「別の店にしよう」

「どうして」

「知らないカップで飲みたい」

扉が開いた。

母は少しだけ眉を上げ、それから「探しておく」と言いかけた。

乃亜は先に言う。

「店は私が選ぶ」

母は口を閉じたあと、短くうなずいた。

乃亜はスーパーの袋を母へ返し、上りのボタンを押した。食器棚には、湯のみ一つ分の空白ができている。

帰ったら、そこへ何も置かないつもりだった。空いている場所も、自分のものだから。