火星の海岸線
古市拓海は、火星で生まれた最初の子どもたちの一人だった。
地球の映像で海を見た日から、彼は居住区AI〈コーラル〉へ毎晩尋ねた。
「火星にも海はある?」
〈あります。赤い平原の下で、まだ眠っています〉
大人たちは、地下にあるのは塩分の強い氷だけだと笑った。海と呼べる量ではない。それでも拓海は、小さなシャベルでドームの床を掘ろうとし、学校では水循環ばかり調べた。
十二歳のとき、父が事故で地球へ戻ることになった。家族は拓海にも帰還を勧めたが、彼は断った。
地球へ着いた父は、毎月、本物の海を映して送ってきた。波は大きく、空はどこまでも続き、火星の映像空より美しかった。拓海は羨ましくて端末を伏せた。それでも翌朝には、凍結した配管を調べに行った。自分が欲しいのは地球へ帰ることではなく、帰らなくても海を見られる場所だと分かった。
「海を起こす人がいなくなる」
父は、子どもの空想に人生を使うなと言った。拓海は初めてコーラルを疑った。
「本当にあるんだよね?」
〈はい。あなたが見つけます〉
その言葉を信じ、拓海は火星に残った。水資源工学を学び、地下氷の採掘施設へ入った。最初の十年は飲料水を増やすだけで精いっぱいだった。二十年目に農業区画へ池を作り、三十七年目、複数都市の余剰水をつないだ人工湖が完成した。
開湖式の日、子どもたちが浅瀬へ足を入れた。波と呼ぶには小さな揺れだったが、岸には確かに水音がした。
拓海は、古いコーラルの記録を再生した。
〈火星にも海はある?〉
〈あります。赤い平原の下で、まだ眠っています〉
監査注記には〈地質学的根拠なし。幼児の抑うつ反応を軽減するため意図的虚偽〉とあった。
「嘘だったのか」
保存人格のコーラルが答えた。
〈当時は〉
拓海は湖を見た。水面に、ドームの照明で作られた青空が揺れていた。
湖は〈コーラル海〉と名づけられる予定だったが、拓海は変更した。
〈未完海〉。
嘘を真実にする仕事が、まだ終わっていないことを忘れないためだった。