火星発、ワンコール
月面発射場のカウントが残り八十九秒になると、八剣哲矢の管制端末へ圏外着信が入った。
『こちら火星アレス市。打ち上げを止めないで』
声は若い女性だった。通信遅延表示は、なぜかマイナス四十七年。背後で子どもたちが市歌を歌っている。
八十九秒後、移民船〈パイオニア〉は点火と同時に誘導を失い、発射塔へ倒れた。白光が管制室を呑む。次に哲矢が目を開けると、また残り八十九秒。圏外着信が鳴る。
乗員百二十人を乗せた船が安全高度へ達し、第一段分離を終えれば反復は終わる。
誘導計算機を予備系へ替えると、船は上昇したが、分離信号が重複して空中分解した。
点火を二十秒遅らせれば、燃料温度が上がり、噴射口が破裂した。
全自動を切って船長へ操縦を渡した回でも、操舵信号に見えない雑音が混じり、機体はまた塔へ寄った。
『こちら火星アレス市。打ち上げを止めないで』
女性は毎回、人口を告げた。十二万四千八百六人。この船が運ぶ種子と胚細胞がなければ、四十七年後の火星都市は存在しない。
哲矢は雑音の周期を解析した。それは故障ではなく、未来からの量子通話そのものだった。着信するたび、船内の航法量子素子が同じ信号へ共振し、制御を狂わせる。未来を残そうとする電話が、未来を生む船を墜としている。
通話を遮断すればよい。だが受信器は移民船の中核に組み込まれ、停止には計画全体の永久破棄鍵が必要だった。使えば船は二度と発射できず、火星市も電話の女性も、十二万の人生も歴史から消える。
次の着信で、女性が初めて名乗った。
『私は市長のニナ。あなたの曾孫です』
哲矢は返事の代わりに、永久破棄鍵を二つ同時に回した。燃料排出弁が開き、エンジン認証が焼き切れる。発射塔の赤灯が消えた。
『待って。私たちはここに――』
声は砂嵐になり、市歌も途中で消えた。
残り時間はゼロを越えたが、船は動かなかった。ループも戻らない。
乗員たちが避難通路を歩いてくる。哲矢は誰も死ななかった人数と、これから決して生まれない人数を同じ画面で見た。
端末の着信履歴には、圏外の一文字さえ残っていない。哲矢は発射中止報告へ署名し、理由欄に「未来からの干渉」とは書かなかった。
ただ、「私の判断で、人類は火星へ行かない」と記した。