火気厳禁の竜舎
「実験室は火気厳禁です」
竜騎士学校で孵化学を教えるタヴィア・フォルンは、炎を吐く幼竜に囲まれながら毎日そう言った。水桶を満たし、卵の温度を測り、焦げた藁を交換する。小柄な土人族の教師で、腰には消火用の霧吹きしか提げていない。
飼育当番の少年ルッツが最後の卵を磨いていると、暖炉の火が逆向きに伸びた。
炎は人の形になり、天井まで膨らむ。原初火霊ヴァルカ。竜の炎を食らって神へ戻ろうとする災厄で、百年前に炎断ちの勇者が世界の火口へ封じたはずだった。
『我を斬った小娘か。今度はこの雛から燃やす』
タヴィアは霧吹きを一度押した。
「火遊びはいけません」
細かな水滴が一粒、火霊の胸へ触れる。
爆発は起きなかった。むしろ室内の炎がすべて一本の糸となり、その水滴へ吸い込まれた。原初火霊も悲鳴ごと縮み、霧吹きの瓶の底で赤い泡になる。竜王の業火を一息で消した勇者にとって、神の炎も頑固な焦げと変わらない。
ルッツだけが卵の陰から見ていた。ルッツの腕の中で、卵が小さく震えた。原初火霊の熱を浴びながら、殻にはひび一つない。タヴィアは怪物を消す前に、すべての熱を卵から逸らしていたのだ。世界を焼ける炎より、孵る前の命の適温を優先した。その細かな加減こそ、炎断ちと呼ばれた本当の理由なのかもしれない。少年は温度計を握り直した。針はきちんと適温を指している。
タヴィアは瓶の蓋を固く閉め、封印札を貼る。焦げた床を削り、煤を箒で集め、怯えた幼竜の鼻先を撫でた。消えた暖炉には新しい薪を入れ、普通の火だけを起こす。
「先生、その瓶、危なくないんですか」
「次の火山実習で処分します」
「もしかして、炎断ちの勇者って先生?」
タヴィアは少年の手に水桶を持たせた。
「その話をする前に、あなたの卵が三度高温です。親になるなら温度管理を覚えなさい」
卵の内側から小さな嘴が殻を叩く。無事な音だった。
教師は霧吹きを腰へ戻し、赤い泡を揺らさないよう歩いた。
「実験室は火気厳禁です」