炊飯器の最後の音
炊飯器は、空になった台所で一度だけ鳴った。
炊き上がりの電子音は妙に明るく、床に積まれた段ボールへ跳ね返った。杏耶が蓋を開けると、白い湯気が上がる。母は新聞紙の上に茶碗を二つ並べた。
「この炊飯器、あなたが持っていきなさい」
「要らないよ。うちは鍋で炊いてる」
「鍋なんて面倒でしょう。これはまだ使えるのに」
本体の蓋には、母が貼った「早炊き二回押す」のシールが残っている。杏耶が実家に来るたび、母は同じ説明をした。教えられなくても使えると言うと、「昔から機械に弱いから」と笑った。
母はしゃもじで山盛りによそった。
「多い」
「片づけで動いたんだから、食べられる」
杏耶は自分の茶碗から一口分を釜へ戻した。母が眉を上げる。
「そんな戻し方、行儀が悪い」
「最初から少なくして」
「せっかく炊いたのに」
杏耶は茶碗を両手で持った。最後の食事まで、量を決めるのは母だった。白米の湯気は懐かしいのに、喉の奥が狭くなる。
「炊飯器を持って帰ったら、またこの量を食べることになる気がする」
母はしゃもじを置いた。
「物にそんな意味をつけなくても」
「意味をつけたのは、お母さんだよ。家の味とか、ちゃんとした食事とか」
しばらく、二人が米を噛む音だけがした。
母は自分の茶碗からも一口分を釜へ戻した。杏耶と同じくらいの量になる。
「これでいい?」
「私に合わせなくていい」
「じゃあ、私が食べたい量」
母はそう言って、戻した米を小さな保存容器へ移した。明日の朝に食べるらしい。
杏耶は茶碗を空にした。炊飯器は家電回収に出し、母の新居には一合炊きの小さなものを送る予定だ。母はもう一度「本当に持っていかないの」と聞いた。
「持っていかない。でも、新しいのの設定は手伝う」
「毎回来て炊いてくれればいいのに」
「毎回は来ない。来た日は一緒に食べる」
母は返事の代わりに、炊飯器の保温ボタンを切った。赤いランプが消える。
食後、杏耶は本体へ家電回収の札を貼った。母は「説明書も一緒に」と言いかけ、途中でやめる。代わりに保存容器の蓋を、自分で確かめて閉めた。
最後の湯気が消えた台所で、杏耶は二つの茶碗だけを洗った。次に同じ食卓につく日があっても、よそう量はそれぞれが決める。