炎帝杯の代理選手

炎帝杯の決勝直前、王都代表が逃げた。

対戦相手は竜騎士サーヴァン。火竜ケルドと一体になって戦う優勝候補で、開始前の威嚇炎だけで三人を棄権させている。

王都側に残っていたのは、競技場の整備員ユノークだけだった。

「人数がいないなら失格だ」と審判が告げる。

ユノークは箒を置き、代理登録票へ署名した。

「石床の補修代を払ってもらえるなら、俺が立ちます」

観客席が笑いに揺れる。防具も紋章もない整備員は、開始線で腰を落とし、右手を前へ出した。格闘家の構えではない。飛んでくる砂を止める、ごく普通の姿勢だった。

開始鐘と同時に、サーヴァンが叫ぶ。

「ケルド、《炎走》!」

竜炎が競技場を横一文字に駆ける。石床がめくれ、炎の波がユノークを呑んだ。実況席は早くも勝者の名を読み上げようとする。

だがケルドだけは翼を広げたまま固まった。

炎の中心から、自分を見返す目が消えていない。竜は獲物の恐怖を嗅ぎ取れる。そこには恐怖どころか、心拍の上昇さえなかった。

煙が晴れる。

ユノークは同じ姿勢で立っていた。右手を前へ、腰を落とし、開始線から爪先一つ動いていない。胸の整備員章も煤けていなかった。

「防壁を使ったな!」

サーヴァンは審判へ抗議する。

「魔力反応なし」と判定官が答えた。「そもそも、彼には魔力がありません」

実況官は過去の試合記録をめくり、声を失った。ユノークが補修した区画だけは、どれほど激しい決勝でも一度も崩れていない。守られていたのは今日の開始線だけではなかった。

「なら次で終わる。《炎帝冠》!」

ケルドの角に三重の火輪が生まれ、金色の竜炎が円錐状に収束する。王族席の防壁が二枚割れ、観客は悲鳴を上げて伏せた。

火の幕が落ちる。

ユノークはまだ同じ構えだった。背後の開始線まで、白い石灰が一本残っている。

「昔、地下闘技場で死ねない奴を見世物にしていた。俺がその最後の一人だ」

サーヴァンは竜槍を構え、炎をまとって突撃する。攻撃を受けただけでは勝敗がつかない。場外へ押し出せばよいと判断したのだ。

槍先がユノークの掌へ触れる。

代理選手は開始線に立ったまま、炎帝杯の優勝槍だけが中央から砕けた。