片方の手袋は乗り越す

 灰色の手袋が、座席の端に片方だけ残っていた。

 帆乃香が気づいたのは、持ち主らしい人が降りてから二駅後だった。車内にはもう三人しかいない。誰のものか確かめる方法はなく、手袋は発車のたび座席の縫い目に沿って少しずつ動いた。

 外ではみぞれが降っている。窓へ当たり、細い水になって後ろへ流れる。空調は暖房の低い音を続け、床下では車輪が乾いたリズムで回っていた。

 帆乃香は今日、同居していた友人の荷物を宅配便で送った。

 喧嘩ではない。友人は恋人と暮らすために出ていった。残された部屋は広くなり、玄関には片方ぶんの傘しかない。祝うべき変化だと分かっていても、洗面台の空いた棚を見るたび、自分だけ置き忘れられたように感じた。

 手袋がまた少し滑った。

 向かいに座っていた会社員が、それを見ていることに気づいた。彼は立ち上がると手袋を拾い、網棚の端ではなく、ドア横の目につく場所へ置いた。駅員へ渡すつもりかと思ったが、彼は次の駅でそのまま降りた。

 持ち去らず、持ち主にもなれず、ただ見つけやすい位置へ移しただけだった。

 帆乃香はドア横の手袋を見た。次の駅でも誰も取りに来ない。終点まで乗り越すのだろう。

 終電が最後の区間へ入ると、照明が窓に長く映った。手袋の指は少し曲がり、誰かの手の形をまだ覚えているようだった。暖房の風が当たるたび、指先だけがごくわずかに動いた。窓の外のみぞれも、同じ方向へ細く流れていた。

 終点で帆乃香はそれを駅員へ渡した。

「車内にありました」

「ありがとうございます」

 短いやり取りのあと、手袋は透明な袋へ入れられた。持ち主へ戻るかは分からない。

 帆乃香は改札を出た。友人の空いた棚も、今夜の部屋も、すぐ別のもので埋める必要はない。なくしたものが戻るまで、誰かの手を借りながら保管されることもある。

 みぞれの中へ片手を出すと、指先が冷たかった。帆乃香はポケットへ戻し、自分の手袋を両方あるか確かめた。一人分の温度で帰る夜も、今日は大丈夫そうだった。