犬のいない散歩道
郁美は仕事帰り、駅から家までの道を遠回りしていた。八時を過ぎても空気がぬるく、コンビニで買った冷たいお茶のボトルが手の中で汗をかいている。
歩きながらSNSを開くと、犬の動画が続けて流れた。朝起こしに来る犬、飼い主の帰宅を待つ犬、休日の公園で笑っているように走る犬。〈この子がいるから毎日頑張れる〉という文章に、郁美は何度もハートを押した。
子どもの頃から犬を飼いたかった。けれど今の部屋はペット不可で、残業も多い。生活費を考えれば、引っ越しもすぐにはできない。
画面の中では、仕事から帰ると誰かが全身で喜んでくれる。郁美の部屋で待っているのは、朝出し忘れたゴミ袋と、冷蔵庫の低い音だけだ。
おすすめ欄に〈犬を迎えて人生が変わった〉という投稿が出た。郁美は、自分の人生が変わらないのは覚悟が足りないからなのかと思った。環境を整え、時間を作り、お金を貯めればいい。正しいことばかりで、疲れている夜には重かった。
公園の横を通ると、植え込みから一匹の猫が出てきた。首輪はなく、郁美を見ても近づかない。街灯の下で一度だけ伸びをし、ベンチの下へ入った。
郁美は立ち止まり、少し離れた場所から眺めた。写真を撮ろうとして、やめた。暗くてうまく写らないし、投稿すれば「猫のいる暮らし」の一場面みたいになる。でもこれは、郁美の猫ではなく、同じ道に偶然いただけの猫だった。
それで十分だった。
お茶を一口飲み、ベンチに五分座った。遠くで犬の鈴が一度だけ鳴った。街灯に虫が集まっていた。猫は出てこなかった。動画の犬たちのように、郁美を必要とはしていない。それでも、誰にも必要とされない時間が、全部空っぽなわけではなかった。
スマートフォンを鞄へしまい、家へ向かう。ペットを迎える予定は立たないまま、部屋も静かなままだ。
けれど今夜は、犬のいる誰かの生活と比べず、猫を見た五分を自分の出来事にした。郁美はボトルの水滴をハンカチで拭き、ゆっくり歩いた。