犬はログアウトしない
蓬莱絖太の犬は、死んだあとも散歩をせがんだ。
老犬の最期の一年、首輪AIは視線、歩幅、匂いへの反応を記録していた。火葬の翌日、絖太が拡張眼鏡をかけると、玄関に犬が座っていた。白くなった鼻、少し傾く首、散歩紐を見たときの短いくしゃみまで同じだった。
《喪失緩和モードは三十日間です》
絖太は毎朝、仮想の犬を連れて歩いた。犬は電柱を嗅ぎ、猫を追い、昔と同じ公園で水を欲しがった。紐には重さがあり、手のひらが引かれた。
三十日後、絖太は延長料金を払った。三か月後も、半年後も払った。犬の毛は抜けず、足腰も弱らず、死ぬ前より元気だった。その若返りが嬉しいほど、生前の苦しみまで偽物にしている気がした。
友人は「前へ進め」と言った。だが絖太には、犬が偽物だから別れられないのか、本物と同じだから別れられないのか分からなかった。
ある朝、犬がいつもの道を外れた。何度呼んでも、古い診療所の前へ絖太を引っ張った。閉院したはずの建物には、臨時の心臓検診車が止まっていた。係員に勧められ検査を受けると、絖太には自覚のない不整脈が見つかった。
首輪AIは、生前の犬が絖太の発作前に見せた行動を学習していたのだ。
手術後、絖太は犬を消せなくなった。命を救った存在を「記録」に戻すことが、二度殺すように思えた。
退院の日、保護施設で片耳の欠けた老犬と目が合った。絖太は迷った末、その犬を引き取った。家へ連れ帰ると、仮想の犬は低く唸り、現実の犬も画面には見えない相手へ吠えた。
数週間、散歩は大混乱だった。二本の紐が脚に絡み、片方は木をすり抜け、片方は泥へ飛び込んだ。絖太は久しぶりに腹を抱えて笑った。
やがて仮想の犬は、公園の入口で立ち止まるようになった。学習範囲の外へ、新しい犬が進み始めたからだ。
絖太は延長契約を終えた。最後の日、仮想の犬はログアウトせず、ただ記録の尽きる場所で座っていた。
「ここからは、行ったことないもんな」
絖太は頭を撫でる仕草をし、現実の紐を握り直した。
一匹は消え、一匹は先へ走った。手のひらには、確かな重さが残った。