相続税の朝

杵築皐月は、母・千代乃の認知症が進んでから、勤め先を辞めて小さな賃貸ビルを管理した。入居者対応、修繕、通院、夜間徘徊の見守り。兄の英基は「いずれビルは長男のもの」と言いながら、固定資産税さえ払わなかった。

千代乃が亡くれると、英基は税理士を替え、皐月へ遺産分割協議書を送った。

ビルも預金も英基が取得。皐月には、介護中に住んでいた管理人室の家賃を請求する。十日以内に署名しなければ「使い込みで訴える」と書かれていた。

皐月は署名せず、母が生前から依頼していた税理士へ連絡した。

ところが英基は、皐月の署名まで作って分割協議書を完成させ、相続税の申告を済ませた。数か月後、税務署の調査官が英基の会社を訪ねる。英基は母の死亡直前、ビルの修繕費を装って三千万円を自社へ送金し、その金で投資用マンションを買っていた。さらに、母が英基の会社から六千万円を借りていたという借用書を作り、遺産額を減らして申告していた。

借用書の日付は、千代乃が文字を書けなくなった後。印紙は発行前のもの、振込記録もない。英基のパソコンには、署名画像を貼り付けた元データが残っていた。

「節税の相談をしただけだ」

英基は笑おうとしたが、調査官は無断送金を母の英基に対する返還請求権として遺産へ加えると告げた。虚偽債務は否認され、隠した送金には加算税の検討も入る。

公正証書遺言も開示された。千代乃はビルを、介護と管理を担った皐月へ遺贈している。英基には生前、自宅購入資金と会社設立資金を渡しており、遺留分を上回る特別受益として一覧化されていた。

英基は皐月の腕をつかんだ。

「申告をやり直せばいい。家族のことを税務署に売るな」

皐月は管理人室の鍵を机へ置いた。

「私は母の数字を守っただけです。あなたが偽物の数字を足しました」

遺言執行者が英基の会社口座へ仮差押えを申し立てた通知を読み上げ、税理士はビルの登記手続書類を皐月へ渡した。

「今日から家賃を請求する側は皐月さんです。英基さんは、三千万円を返す側になります」

相続税の朝、英基の新しいマンションには、税務署の赤い差押通知が届いた。