眠る前の空席

千景の部屋には、使わない椅子が一脚あった。結婚する予定だった人と選んだ、背もたれの低い木の椅子。別れたあとも捨てられず、洗濯物を積む場所になっていた。指輪は返し、式場も解約したのに、椅子だけは粗大ごみの予約画面で手が止まった。二脚を一緒に買った日の店内放送まで思い出せた。

向かいの椅子には毎晩、千景が座る。二人分の食卓で、一人分の総菜を食べる。空いているほうへ目を向けなければ、生活はそれなりに整っていた。けれど友人を呼ぶことも、新しいクッションを買うことも避けた。部屋の配置を変えると、別れを認める気がした。

隣室のアンドレスはコロンビアから来た植物研究員で、棚を組み立てるためにドライバーを借りに来た。玄関から見える洗濯物の山を指し、「あの椅子、眠っていますか」と聞いた。

「使う人がいないので」

「誰が来るまで、座ってはいけませんか?」

千景は答えず、道具箱を渡した。アンドレスはドライバーと引き換えに、小さな紙袋を置いた。中には乾燥させたミントが入っている。

「今夜、お茶を作って五分だけ、あちらへ座る。洗濯物は床でも怒りません」

冗談めいた言い方のまま、彼は帰った。

その夜、千景は椅子の服を一枚ずつ畳んだ。最後に残った白いシャツは、元恋人が置いていったものではなく、自分が去年買ったものだった。誰の記憶も載っていない布まで、空席の理由にしていた。

ミントへ湯を注ぐ。青い匂いが立ち上がった。千景はいつもの椅子に座りかけ、カップをもう一つの場所へ運ぶ。

木の座面は思ったより冷たかった。こちら側から見る部屋は、窓の位置も、照明の影も少し違う。いつも自分が座る椅子だけが、向かいに空いている。

五分のタイマーをかけようとして、やめた。誰も戻らないことも、誰かを待つ必要がないことも、今夜決めなくていい。

千景は二枚並んでいたコースターの一枚をしまった。残した一枚を空席だった側へ置き直し、自分のカップをその中央へ載せた。