秒針を買う店
二十時五十五分。比留間澪人は地下街の端にある〈秒針堂〉へ入った。
今夜二十一時、暗号資産の上場廃止が発表される。直前五分の値動きを一度だけやり直せれば、全財産を五千万円へ変えられる。澪人が買った商品は「五分間反復券」。利益が目標額へ届けば自動終了する契約だった。
店主は真鍮の秒針を卓上へ置く。
「お釣りは寿命でいただきます」
澪人は相場を見て売買した。二十一時、価格が崩れる。損失三百万円。
秒針が逆に一回転し、二十時五十五分へ戻った。
二周目は空売りした。三周目は底値で買い戻した。四周目は別銘柄の連動を使った。差分を覚えるほど残高は増えたが、五千万円へ届かない限り、店主の声からやり直しになる。
「お釣りは寿命でいただきます」
七周目、澪人は自分の誕生日を思い出せなくなった。十周目、大学名が消えた。十二周目、母の旧姓を尋ねられても答えられない。
店主は首を振った。
「寿命とは、残り年数だけではありません。あなたが生きた時間も寿命です」
反復一回につき、記憶から五年分の細部が削られていた。出来事の見出しだけは残るのに、声や匂い、誰と笑ったかが抜け落ちる。履歴書のような人生だけが、澪人の中に薄く残った。
十四周目、澪人は必勝の注文列を完成させた。二十時五十九分五十八秒、残高は四千九百九十九万八千円。最後に二千円分を売れば目標達成。秒針も、店も、失った記憶も消え、金だけが残る。
注文画面の本人確認欄に、自分の氏名が表示された。
比留間澪人。
読めるのに、それが誰か分からなかった。
十五周目。澪人は売買しなかった。全ての建玉を元値で閉じ、反復券を店主へ返す。
「契約を終わらせたい」
「目標未達の解約料は、名前です」
澪人は真鍮の秒針へ署名した。書き終えた瞬間、文字の意味が頭から抜け落ちる。
二十一時。相場は暴落し、彼の口座残高はほぼ零になった。時計は二十一時一分へ進む。
店を出た男は、身分証の写真と同じ顔をしていた。だが名前を呼ばれても振り向かなかった。掌には買わなかった秒針の跡だけが残り、前へ進む一秒ごとに、知らない人生が始まっていった。