空鯨の雲毛に刺さったもの
空鯨が町の上で止まった日、影だけで正午が消えた。
白い雲毛に覆われた巨体が低く浮かび、ひれが動くたび屋根瓦が震える。落ちれば町一つが潰れる。空港組合は避難鐘を鳴らし、砲台へ火薬を運んだ。
飛行船整備士のミナトは、望遠鏡で空鯨の左ひれを追った。
ひれが動くたび、雲毛の一部が不自然に引きつれている。そこから黒い縄が垂れ、先端の鉄鉤が鐘楼へ絡んでいた。
空鯨が町の上を離れられないのは、襲うためではない。飛び去ろうとするたび縄が傷を引き、鐘楼まで倒しかねないから、痛みに耐えて静止しているのだ。雲毛の間からのぞく左ひれだけが、疲労で小刻みに震えていた。
「捕鯨船の銛索だ。逃げてきたんだ」
組合長は砲撃で追い払えと言う。
ミナトは工具帯を締め、係留気球へ飛び乗った。
「撃てば暴れる。先に、刺さったものを抜きます」
気球を上げると、空鯨の鳴き声が腹へ響いた。遠雷より深いのに、どこか掠れている。
間近で見る雲毛は真っ白ではなかった。煤と血で灰色に固まり、その奥へ返しのついた銛が沈んでいる。
「痛いところへ乗るよ。ごめん」
ミナトは太い毛束へ身体を預けた。
空鯨が身じろぎし、町がざわめく。けれど振り落とさず、左ひれだけを静かに傾けてくれた。
縄を切り、銛の周りの毛を短く刈る。返しを畳むため、整備用の細い鋏を金具へ差し込む。
一度では動かない。油を差し、両足を踏ん張り、もう一度。
金属が折れた。
銛を抜くと、傷から淡い青の光がこぼれた。ミナトが止血布を当てる間、空鯨は一度もひれを動かさなかった。
やがて雲毛が傷を覆い、巨体がゆっくり上昇する。
ひれを一度大きく打つと、町へ細かな雫が降った。雨ではない。雲毛に溜まっていた澄んだ水で、煤けた屋根も砲台の火薬も静かに洗い流していく。
人々は歓声を上げたが、空鯨は空へ帰らず、鐘楼の横まで顔を下ろした。
ミナトが屋根へ降りると、丸い顎が膝先へ触れる。
雲毛に手を沈めれば、指も手首も飲み込まれた。町を覆うほどの神獣なのに、預けられた頭は風船のように軽い。それでも掌には、晴れた日の雲の内側を思わせる、柔らかな熱が残り続けた。