管轄外の一一〇番
タクシー運転手の藤代壱馬は、泥酔した客に「境外駅まで」と告げられた。ナビにない駅名だったが、客が示す細道を進むと、夜霧の中にロータリーが現れた。
後部座席はいつの間にか空だった。メーターだけが上がり続けている。
駅前には古い交番があり、入口の掲示板に赤字で書かれていた。指名手配の紙はすべて顔が剥がされ、罪名欄には「帰ろうとしたため」とだけ印刷されていた。
《境外駅前交番の電話から、一一〇番してはいけない。こちらから呼んだ警察は、こちらの者を犯人にする》
壱馬は車へ戻ろうとした。するとロータリー脇で若い男が倒れているのが見えた。頭から血を流し、「警察を」と繰り返している。スマホは圏外だった。
壱馬は交番の黒電話を取った。
一一〇を回すと、すぐ女の声が出た。
『事件ですか、事故ですか』
「怪我人です。境外駅前」
女は黙った。遠くで紙をめくる音がした。
『その住所は、当方の管轄に存在しません。受理できません』
通話が切れた直後、別の男の声が同じ受話器から聞こえた。
『境外署。通報者一名を確認。逃走前に確保する』
ロータリーの向こうに、赤色灯がいくつも浮かんだ。壱馬はタクシーへ飛び乗り、霧の道を戻った。バックミラーには、倒れていた男が立ち上がり、敬礼している姿が映った。
気づくと市街地だった。朝まで営業を続け、夢だったと思うことにした。
昼、自宅でスマホに緊急速報が届いた。
《境外署 重要指名手配》
添付された顔写真は壱馬だった。容疑は「管轄内への不法侵入」。通報者欄にも藤代壱馬とある。
削除しても通知は戻った。家族の端末にも同じ速報が届き、妻から「何をしたの」と電話が来た。
その最中、インターホンが鳴った。
画面には古い制服の警官が四人並んでいた。帽子の影で顔は見えない。
『巡回連絡です』
一番前の警官が手帳を開いた。
『この住所に、存在しない駅から出た方が住んでいると通報がありました』
スマホの地図アプリが、壱馬の自宅を赤い線で囲んだ。
《管轄が変更されました:境外署》
玄関の外で、手錠を開く金属音がした。