紙人形は名字を呼ばない
離婚届を出した帰り、莉央は区役所の裏に見知らぬ窓口を見つけた。
札には「名前のほつれ、繕います」とある。
白い手袋をした細身の男が、赤い印章を磨いていた。肌は和紙のように白く、瞬きをするたび頬に折り目ができる。
「名は薄い紙だ」
紙人形の折守は、姓で人を呼ばなかった。人間は名前へ家や血や期待を貼りすぎるから嫌いだという。
莉央は離婚後の名字を決められずにいた。
旧姓へ戻れば、仕事上の名義をすべて変えなければならない。結婚姓を残せば、元夫との関係を惜しんでいると思われそうだった。窓口でも「普通は戻しますよ」と言われ、普通という紙で包まれた気がした。
「どちらが正しいですか」
「名は薄い紙だ。正しさを載せると破れる」
「でも選ばないと」
「では、二つとも書け」
折守は水に溶ける紙を二枚出した。
莉央が旧姓を書くと、学生時代のあだ名や実家から届く荷物の字が浮かんだ。結婚姓を書くと、名刺、仕事の実績、病院で呼ばれた声が現れた。どちらにも元夫だけがいるわけではなかった。
「名前って、こんなに他人の声が入るんですね」
「だから人間は嫌いだ。自分の呼び方まで他人に預ける」
折守は二枚を水へ入れた。姓はゆっくり滲み、最後に「莉央」だけが残った。
「どちらを選べば、説明が少なくて済みますか」
「他人への説明か」
「自分への、です」
その答えを口にした瞬間、莉央は決めた。
仕事では結婚姓を使い続け、戸籍は旧姓へ戻す。どちらか一つを本物にしなくていい。呼ばれ方が二つあっても、自分は一人だ。
折守は赤い印章を紙へ押した。印面には姓がなく、「莉央」とだけ彫られていた。
「そんな印、使えませんよ」
「役所ではな」
「何に使うんですか」
「自分で決めた紙が、風に飛ばないためだ」
窓口を出る前、莉央は折守の胸元に名札がないことへ気づいた。
「あなたの名字は?」
「呼ぶな。人間に貼られるのは嫌いだ」
彼は白い手袋で赤い印章を包み、少し間を置いた。
「だが、次に来たときは名前で呼べ。薄い紙でも、重ねれば居場所になる」
莉央は印章を握った。
そこには、誰の妻でも娘でもない二文字が、赤く残っていた。