終点まで一駅
最終電車は、終点まで一駅なのに五分で戻った。
戸倉真人の向かいには、見知らぬ高校生が座っている。真人と同じ癖で右の眉を触り、古びた結婚指輪を紐に通して首から下げていた。
「お父さん、降りないの?」
少年がそう言うと、電車は終点へ着く。真人が何か答える前に車内灯が消え、また一駅前へ戻る。
明日、真人は恋人へ婚姻届を渡す予定だった。交際七年。喧嘩は増えたが、結婚すれば落ち着くと思っている。
一周目、少年に名前を聞いた。
「戸倉優弦。十六歳」
二周目、母親の名を聞いた。恋人と同じだった。
三周目、なぜ指輪を持っているのか尋ねた。
「離婚の日、お母さんが捨てたから」
真人の目的は一つに変わった。結婚が壊れる理由を聞き出し、明日から避けること。成功条件は、終点までに少年から原因を一つ言わせること。
「浮気か」
「違う」
「金か」
「違う」
「暴力?」
「そういう分かりやすいのじゃない」
少年は毎回、終点が近づくと口を閉じる。
「お父さん、降りないの?」
四周目、真人は怒鳴った。
「じゃあ何を直せばいい!」
少年は眉を触った。
「何でも直せると思ってるところ」
窓に、未来の食卓が映る。謝る妻に正論を返す真人。進路を語る息子へ損得を説く真人。家族のためと言いながら、家族が選ぶ余地を五分ずつ奪う姿。
扉の上に終了条件が出た。
〈この未来を受け入れて終点へ進む/この未来の発生条件を破棄する〉
受け入れれば、理由を知った真人は「正しい夫」になろうとするだろう。だが少年は首を振った。
「知ってるお父さんになるだけで、僕のお父さんじゃなくなる」
破棄すれば、明日の婚姻届を渡さない未来になる。少年は生まれない。失敗する結婚だけでなく、十六年分の笑い声も消える。
終点まで残り十秒。
「お父さん、降りないの?」
真人は鞄から婚姻届を出した。恋人の署名と、自分の署名。中央からゆっくり破る。
少年の輪郭が車窓の夜へ溶けた。最後まで泣かなかった。
電車は終点へ着いた。
翌朝、真人は恋人に別れを告げた。未来の理由は話せない。指輪も少年の名も、もう思い出せなかった。
ただ、最終電車を降りるたび、空いた向かい席に誰かが眉を触る気配だけが残った。