緑の丸を消す
綾部佐和の名前の横には、いつも緑の丸がついていた。
在宅勤務の開発チームで、それはオンラインの印だった。朝八時半から夜まで、チャットを開いておく。夕食を作る間も、入浴中も、音量を上げて通知を聞いた。すぐ答えられることが、見えない職場で働いている証明だった。
新サービスの公開後、細かな不具合が続いた。佐和は三週間、毎晩パソコンを閉じたあともスマートフォンで質問へ答えた。休日に散歩へ出ても、信号待ちでログを確認した。
木曜の十八時三分、未解決の不具合が一件残っていた。特定の端末だけ、画面の文字が途中で切れる。原因は絞れているが、修正にはあと一時間ほどかかる。
チャットには《今日中にいけそう?》と届いた。
佐和は《対応します》と打った。夕食用に解凍した魚は、台所で水を出し始めている。昨日も同じ魚を食べられず、冷蔵庫へ戻した。
カーソルを見ながら、佐和はチームの勤務表を開いた。今日の終了時刻は十八時。残業申請は出していない。不具合は緊急度「低」で、明朝までの回避策も共有済みだった。
彼女は返事を消し、代わりに書いた。
《現状と再現手順を記録しました。修正は明朝続けます》
送信して、ステータスを《オフライン》へ変える。
緑の丸が灰色になった。
すぐに戻せる。実際にはパソコンの前にいるのだから、嘘をついているようにも見えた。誰かが質問を送ったら、灰色のまま読めばいい。佐和はトラックパッドから手を離し、蓋を閉じた。
一分後、スマートフォンが震えた。画面を伏せると、机の上で振動だけが続いた。佐和は通知の送り主を想像した。質問なら答えられる。困っているなら助けられる。それでも、灰色の丸を自分で緑へ戻すことはしなかった。
台所の魚は、端が柔らかくなっていた。佐和は塩を振り、フライパンへ置く。皮が縮み、小さく油が跳ねた。
翌朝、不具合はまだ残っていた。灰色の時間がコードを書き直してくれたわけではない。
それでも佐和は、昨夜の引き継ぎを読んでから作業を始めた。緑の丸をつける前に、焼いた魚の残りを朝食にした。
オンラインになるのは、それからだった。