締切を一時間遅らせる時計
河港の古道具店〈遅い鐘〉では、どの時計も正しい時刻を示さない。
店主トアリスはそれを直さずに売る。時を告げるだけなら新品でよい。古時計には、間に合わなかった誰かの切実な願いが残っているからだ。
夕刻、治療師ルネグが濡れた薬箱を抱えて飛び込んだ。
「跳ね橋が六時きっかりに上がる。向こう岸の患者へ解毒血清を届けたい」
毒を受けた少年の猶予は二時間。しかし増水で渡し舟は出ず、王城へ続く跳ね橋は軍規により、日没の鐘と同時に一時間上がる。門衛に頼んでも「規則だ」の一言だった。
「時間を止める時計はありますか」
「世界を止めるほど大層な品はありません」
トアリスは、文字盤の六だけが削れた懐中時計を取り出した。
「これは一度だけ、時刻に従って動く仕掛けを一時間遅刻させます。人の命や老いには効きません。鐘、門、試験の終了鈴。決められた時刻を待つ物だけです」
ルネグが竜頭を巻くと、針は五時五十九分で止まった。
「橋の時計へ触れさせれば?」
「橋は六時を、一時間後まで思い出せなくなります」
「軍規を破ることになる」
「時計が遅れるだけです。渡るかどうかは、あなたが決めてください」
彼女は懐中時計を掴み、店を飛び出した。
夜半、泥だらけで戻ってきたとき、薬箱は空だった。跳ね橋の大時計は日没の鐘を聞いても動かず、ルネグは対岸へ走り抜けた。血清は間に合い、少年は呼吸を取り戻したという。彼女が渡り終えた一時間後、橋は何事もなかったように上がった。
「門衛は時計故障の報告書を百枚書くらしいです」
「患者の死亡報告より軽いでしょう」
ルネグは初めて笑い、値札の金貨を置いた。その横に病院長の診療券も一枚添える。
「代金はこれで足ります。券は、あなたが倒れたときの前払いです。命を売った店主が治療代を惜しんでは困る」
懐中時計を首へ掛けた治療師が、今度は急がず帰っていく。
トアリスが店の時計を一つだけ正しい時刻へ合わせたとき、二度目のドアベルが鳴った。