署名のないガトー

板倉夕莉が考えたガトーショコラは、店長の名前で雑誌に載った。

焦がした胡桃を底へ敷き、黒糖を少し混ぜる。夕莉が祖父の焼き菓子から思いついた組み合わせで、店長は最初、地味すぎると言っていた。試作を二十七回して完成させたのは夕莉だった。けれど記事には「オーナーパティシエの新作」としか書かれていない。

給料日、店長は売上目標を超えた祝いとして、夕莉にもそのケーキを一切れ持たせた。「勉強になったね」と肩を叩かれ、夕莉は笑った。雇ってもらった恩がある。自分の名前も載せてほしかったとは言えなかった。

閉店後の厨房で、一人になってから箱を開けた。カカオの香りの奥に、焦がした胡桃の香ばしさがある。冷えた生地は密で、底の粒を噛むと小さく砕けた。

夕莉は上の飾りを外した。店長の頭文字を金色で印刷した、丸いチョコレートだった。

雑誌を見た母からは、「店長さんの才能、すごいね」と連絡が来た。夕莉は否定できないまま、本体を一口食べる。黒糖の余韻が、狙った通り遅れて広がった。店長は試作のたび「もっと普通でいい」と言った。最後にこの配合を残したのは夕莉だ。舌は、その事実を知っている。

夕莉はケーキを、上からではなく底から食べ進めた。胡桃の層だけを先になくし、自分が決めた部分を確かめる。残ったのは、飾りのチョコレートと、上部のガトーが一口分だった。

鞄から菓子コンクールの応募用紙を出す。作品名の欄へ、同じガトーの名前を書いた。考案者の欄には「板倉夕莉」と記入する。店で出しているものとは飾りを変え、配合表と二十七回分の試作ノートを添えることにした。

店長へ許可を求める文章は書かなかった。レシピの権利について確認するため、まず主催事務局へ資料を送った。

最後に上部の一口を食べ、金色の飾りだけを皿へ残す。

署名は食べられなかった。夕莉はそれを制服のポケットへ入れず、店長の作業台に置いた。明日から、自分の味へ他人の名前を載せたままにはしない。