羅針盤を海へ返す

潮騎士カイナスは、船長の羅針盤から半里以上離れられない。

胸の波形呪印が海水へ変わり、肺を満たすからだ。

反乱を疑われた船員三人が甲板へ並べられた夜、船長は命じた。

海は凪いでいた。助けを求める声だけが遠くまで届く、処刑には都合のよい夜だった。

「全員、海へ捨てろ」

カイナスの腕が剣へ伸びる。

船医アネットはその手首をつかんだが、力では止められない。

「私に所有権を移してください」

彼女は船長へ言った。

「治療のためです」

「賢明だ」

船長は羅針盤を渡した。

蓋の内側に新しい主人の名を刻めば、命令を上書きできる。

アネットは針を見た。

北を指していない。

常にカイナスを指している。

羅針盤が騎士を縛るのではなく、騎士の命を針に閉じ込めているのだ。

「名前を刻む道具を」

渡された彫刻針を、彼女は羅針盤の軸へ差し込んだ。

船長が笑う。

「そうだ。お前の名を――」

アネットは軸を持ち上げた。

磁針が抜ける。

同時にカイナスの胸から青い光が引き出され、針へ戻った。

彼は大きく息を吸う。

「その針を戻せ!」船長が叫ぶ。

「海へ返します」

アネットは磁針を舷側から投げた。

小さな銀色が月明かりの中を落ち、波へ消える。羅針盤の文字盤は空白になり、船長が命じてもカイナスの腕は動かなかった。

「逃げて」

アネットは海を指す。

「あなたなら泳いでどこへでも行ける」

カイナスは三人の縄だけを切り、自ら海へ飛び込んだ。

その姿は黒い波の先へ消えた。

直後、嵐が来た。

怒った船長が舵を奪い、船は暗礁へ向かう。帆柱が折れ、アネットが甲板から投げ出されかけたとき、海面が持ち上がった。

巨大な水の腕が船腹を押し、進路を変える。

波の上にカイナスが立っていた。

「戻ったの?」

「羅針盤なしで、戻る方角を選べるか試した」

彼は甲板へ上がり、船長の足元ではなくアネットの前へ、自分の銛を横たえた。

「船員名簿はあるか」

「ええ」

「所有欄のないものを」

夜明け、空白だった一行へ、カイナス自身の名が濡れた指で記された。