自転車は後輪から
津々美のベランダには、元恋人の自転車が錆びていた。
別れる一か月前に「直しておいて」と置かれ、そのまま連絡が途切れた。処分には防犯登録の確認が要る。
自転車店で働く遥子は、まず持ち主へ期限を通知しろと言った。
「もう連絡したくない」
「勝手に捨てると揉める」
「揉めないために別れたのに」
「法律は気分を読まない」
津々美は今すぐ消したい。遥子は手順を飛ばさない。二人はその場で簡易書留の文面を作った。
期限を過ぎても返事はなかった。元恋人が購入時の控えを郵送してきただけだ。
遥子は控えを確認し、譲渡の手続きをしたうえで、自転車を作業場へ運んだ。
「廃棄でいい」
「フレームはまだ使える」
「私の部屋からなくなれば何でもいい」
「なら、使える状態にして手放す」
地域の自立支援施設が、通勤用の自転車を募集していると遥子は言った。津々美は善い話にまとめられるのが嫌だった。
「失恋を寄付で美談にしないで」
「美談じゃない。粗大ごみ代が要らない」
「それならいい」
二人は同意の理由が違うまま、修理台へ自転車を載せた。
遥子が後輪を外し、津々美が錆を拭く。チェーンに油を差し、ブレーキワイヤーを交換する。恋人が選んだ青いベルだけは鳴らなかった。
「替える?」
「外す」
「施設では必要」
「じゃあ替える」
津々美は新品の銀色を選び、自分でねじを締めた。
防犯登録の名義が変わった紙を、津々美は二度折って封筒へ入れた。遥子は一度で十分だと言ったが、折り直させはしなかった。
受け渡しの日、二人で駅前まで押していった。津々美はサドルを持ち、遥子はハンドルを支える。坂道で自転車が先に進みそうになると、二人とも同時にブレーキへ手を伸ばした。
施設の担当者が試乗し、銀色のベルを一度鳴らす。
軽い音だった。
帰り道、津々美の手には何もなかった。遥子は修理代を請求し、津々美は高いと文句を言った。
「友達価格は?」
「仕事を安くしない」
津々美はきちんと払った。
二人は空いたベランダへ戻り、錆の跡を同じブラシでこすった。