苦くない送別会
宇田川麻衣は、異動する同僚へ贈る豆を選ぶため、カフェ〈余韻〉へ来た。
「苦くないものをお願いします。あの人、苦い珈琲が嫌いなので」
バリスタの笹森碧生は、柄の長い銅のスプーンを胸ポケットに挿している。抽出のたび一滴すくい、熱いまま、冷めてからと二度味を見る。
「苦味は、最後に来ます」
麻衣は、軽くて飲みやすい豆なら何でもよかった。異動する朝倉とは五年同じチームだったが、愛想がなく、指摘が細かく、昼食にも誘いづらい。送別会の幹事になったから、形だけ整えたかった。
碧生は贈答用のカードを見た。ほかの同僚はすでに一言ずつ書き、麻衣の欄だけ空白だった。
「嫌いな人へ、なぜ個人的に豆を?」
「幹事だからです」
「皆からの花と商品券は、もうある」
麻衣は鞄を閉じた。その内側に、五年前のメールを印刷した紙が入っていることまで見られた気がした。
新人だった麻衣は、売上集計の式を一列ずらし、取引先へ誤った数字を送った。朝倉は送信前に気づき、徹夜で全資料を直した。翌朝の会議では「確認工程の不備です」とだけ説明し、麻衣の名を出さなかった。
礼を言おうとしたとき、朝倉は「次から直してください」と背を向けた。それが冷たく聞こえ、麻衣は結局、きちんと謝りも礼も言わなかった。
「今さら蒸し返したら、向こうも困りますよね」
「困らせないためではなく、自分が気まずくならないためでしょう」
銅のスプーンがカップの縁へ触れ、澄んだ音を立てた。
「苦味は最後に来ます。飲んだ直後ではなく、言わなかった時間のあとに」
碧生が選んだ豆は、熱いうちは少し硬く、温度が下がると果実の甘さが出るものだった。麻衣にも一杯淹れ、会計を急がず、冷めるまで待たせた。
「これ、最初は苦いです」
「ええ。苦くない豆を探すより、変わる豆を選んだ方がいい」
麻衣はカードへ書いた。
『五年前、私のミスを直し、名前を出さずに守ってくれたことを覚えています。あのとき言えなかった。ありがとうございました。』
送信する報告書のような文章だったが、嘘はなかった。
碧生は豆の袋へ銅色のリボンを結ぶ。胸ポケットのスプーンを一度抜き、袋の横へ添えた。
「それまで贈るんですか」
「貸すだけです。冷めたときの味も確かめてもらうために」
「返しに来なかったら?」
碧生は初めて笑った。
「その人が戻る理由になります」
送別会の翌日、朝倉は銅のスプーンを返しに店へ来たという。麻衣のカードを胸ポケットに入れたまま。
碧生は磨き直したスプーンで、新しい一杯を味見した。
「苦味は最後に来ます。だから、最後から甘くすることもできます」