落札番号を呼ばせない

競売開始の一時間前、宝生空也の携帯へ落札後の自分から一文が届いた。

〈七十二番が降りたら、八千万円で札を上げろ。〉

空也は地方美術館の若手学芸員。出品作は百年前に失われた画家の代表作〈冬の港〉。八千五百万円以内で落札できれば、閉館危機の美術館へ客を戻し、空也は主任に昇格する。手には象牙色の入札札。

七十二番が降りた瞬間に札を上げると、別の電話入札が八千六百万円をつけた。失敗。ハンマーの音とともに時間が戻る。

二周目は八千四百万円。四周目は電話入札の上限を読み、六周目は競売人の間を指定した。象牙色の札を上げる角度まで同じになった。

〈七十二降、三呼吸待ち、八四五〇、次は上げるな。〉

八周目、八千四百五十万円で落札。会場に拍手が起こり、美術館長から主任の辞令が届いた。成功条件達成。

作品を梱包する前、裏板から古い鑑定書が落ちた。署名は空也の父。著名な鑑定家だった父は、死ぬまで〈冬の港〉を真作と保証していた。だが紫外線写真には、現代顔料の修復では説明できない下絵がある。鑑定書の日付も紙の製造年より古い。父が偽造し、この競売で公的美術館に買わせれば真作として履歴が完成する仕組みだった。

未来からの一文は、父の名を守るための最後の仕上げだった。

確定欄に「七十二番が――」が残る。空也は象牙色の札を膝で折った。

〈札を一度も上げず、父の鑑定書が偽造だと会場で告げろ。〉

競売開始前へ戻る。

空也は壇上へ上がり、鑑定書と分析画像を公開した。出品は取り下げ。美術館は信用を失い閉館、空也も守秘義務違反で解雇された。父の回顧展は中止され、相続した鑑定料も返還請求で消えた。空也の姓が入った過去の図録は販売停止となり、大学の非常勤講師の席まで失った。父の墓前には、匿名の抗議文が何通も置かれた。

後日、空也は倉庫整理のアルバイトで、名もない複製画を運んだ。象牙色の札の折れた半分をしおりにしている。

〈冬の港〉が本物か偽物か、結論はまだ出ていない。ただ、空也が落札者になる未来だけは、もう二度と呼ばれなかった。