薬缶が鳴るまで

 伏見志津夫は、台風の夜に熱を出した。電話をかけた覚えはない。目を開けると、疎遠になっていた息子の朔が台所に立っていた。

「近所の奥さんから連絡きた」

「余計なことを」

「鍵、植木鉢の下に置くのやめろ」

「お前しか知らん」

「近所の奥さんも知ってた」

 朔は薬缶へ水を入れ、生姜を刻んだ。包丁の音が速い。料理の仕事をしているらしいが、志津夫は店の名前も知らない。息子が家を出たのは、再婚を知らせる葉書を送ったあとだった。式に呼ばなかった理由を説明しないまま、妻は三年前に亡くなった。

「砂糖、上の棚」

「知ってる」

「場所を変えた」

「変わってない」

 朔は椅子へ上がり、迷わず右端の瓶を取った。志津夫は毛布の中で目を閉じた。

 薬缶が鳴るまで、二人は風の音を聞いた。窓が軋むたび、朔が留め金を確かめる。志津夫は「大丈夫だ」と言ったが、何が大丈夫なのか自分でも分からなかった。

「何で呼ばなかった」

 湯が沸く直前、朔が訊いた。

「気を遣った」

「誰に」

「みんなに」

「一番楽な答えだな」

 志津夫は言い返せなかった。謝れば済む年数ではないし、謝らなければ始まらないことも分かっていた。けれど熱で乾いた喉から出たのは咳だけだった。

 朔は生姜湯を二つのマグへ注いだ。一つは白。もう一つは、縁の欠けた緑色。朔が高校生の頃に使っていたものだ。

「まだあったんだ」

「欠けてるだけだ」

「捨てろよ」

「飲める」

 味は辛すぎた。志津夫が顔をしかめると、朔は砂糖を足した。自分の分には入れない。昔からそうだった。

 夜明け前、風が弱まった。朔は帰り支度をし、緑のマグを洗った。持って帰るのかと思ったが、水切り籠へ伏せて置いた。

「次、熱出したら自分で電話しろ」

「番号が分からん」

「変えてない」

 玄関が閉まり、部屋が静かになった。

 志津夫は起き上がり、水切り籠の緑のマグを取った。棚の奥へ戻さず、白い自分のマグの隣へ、口を上にして置いた。次に湯を注げる向きで。