蛤がひらくまで
安西佳樹は、明日の午後には海の向こうにいる。
研究員としてオランダへ渡る。二年契約だが、成果が出れば延びる。恋人は「行っておいで」と笑った。遠距離を続けるのか尋ねると、「今決めなくていい」と答えた。
佳樹はその曖昧さに耐えられず、別れの文章を書いた。飛行機が離陸したあと送信されるよう設定してある。待たせるより、期待させないほうが優しい。そう思う一方で、恋人の答えを聞く前に結論を奪っていることも分かっていた。
出発前夜、最後にこの店へ来た。客は佳樹一人。蛤の酒蒸しを頼むと、店主は浅い鍋へ蓋をした。
中から殻の触れ合う、かち、という音がした。酒の甘い匂いと潮の香りを含んだ湯気が蓋の隙間から漏れる。開けると、白い身を見せた蛤が並び、一つだけ口を閉じていた。
「開かないの、ありますね」
「待っても開かないのはある」
店主は火を弱めた。
佳樹は開いた蛤から食べた。身は弾力があり、噛むと塩気のある汁があふれた。閉じた一つを見ているうちに、予約送信の時刻が近づいた。
佳樹は別れの文章を削除した。明日の朝、空港へ向かう前に恋人へ電話する。二年続けたいのか、もう終わりたいのか、自分の怖さも含めて聞く。答えが「終わり」なら、その声で受け取る。
距離は消えない。時差も、二年後の仕事も分からない。電話一本で約束が作れるとも思わない。それでも、閉じたままの気持ちを勝手に捨てるのはやめる。
恋人は、佳樹の合格を自分のことのように喜んだ。だから「待って」と言えないのだと、佳樹は勝手に解釈していた。けれど、待つことを望んでいない可能性もある。電話では、別れたくないという自分の希望を先に言う。そのうえで、相手に同じ答えを求めない。曖昧なまま出発する苦しさも、はっきり断られる痛みも、予約送信へ押しつけず自分で受け取る。
最後の蛤は、火を止める直前に小さく口を開いた。佳樹は熱い汁をこぼさないよう殻を傾け、潮の温度をゆっくり飲み込んだ。