血統の空白
戴冠の冠が王子アルケムの頭へ触れる直前、天井から矢が降った。
護衛ヴェスラは王子を突き飛ばし、床の系譜図へ自分の血を落とした。紙の枝から、系譜喰いの悪魔が顔を出す。
契約は、命令を一つ実現するたび、ヴェスラの祖先を一人、過去から消すというものだった。祖先が消えれば、その血から受け継いだ身体も記憶も変わる。誰が奪われるかは選べない。
「矢を止めろ」
空中の矢が凍り、床へ落ちた。
系譜図から母方の祖母の名が消える。ヴェスラの黒髪が一瞬で銀に変わり、祖母から教わった歌が頭から抜けた。
扉の外で剣戟が響く。反逆者が突入してくる。
「扉を閉ざせ」
石扉が融合した。今度は父方の祖父が消える。ヴェスラの左目が青から褐色へ変わり、剣を握る指の長さまで短くなった。
王子が彼女を見た。
「顔が……」
「見ないでください」
祭壇の司祭が冠の内側から毒針を抜いた。共謀者だ。
「その手を止めろ」
司祭の腕が石になる。
系譜図から母が消えた。
ヴェスラの頬にあった幼い火傷がなくなる。母に救い出された火事そのものが、記憶から消えた。母の声も、家の匂いも、王宮へ仕えることを決めた理由もない。胸に残った忠誠だけが、根のない花のように揺れた。
石扉の向こうで破城槌が鳴る。司祭は残った手で毒針を王子へ投げた。
ヴェスラの身体は間に合わない。
最後の命令を口にする前に、系譜喰いが尋ねた。
――父を消せば、おまえの家名は生まれない。記録も、誓約も、おまえをこの場へ導いた履歴も消える。それでも命じるか。
毒針が王子の喉へ近づく。
「私の前で止めろ」
針が空中で向きを変え、ヴェスラの掌へ刺さった。毒は悪魔が飲み干した。
系譜図から父の名が消える。
彼女の軍服から家紋が消え、腰の剣から銘が消えた。顔の骨格が音を立てて変わり、王子と並んで育った少女の面影がなくなる。護衛名簿の文字も空白になった。
反逆者は捕らえられ、戴冠は守られた。
アルケムは立ち上がり、銀髪の見知らぬ女へ剣を向けた。
「誰だ。私の護衛をどこへやった」
ヴェスラは答えようとした。だが家名だけでなく、父が与えた名の音も思い出せない。
床の系譜図には、彼女へ繋がる枝が一本もなかった。
「私は――」
口の中に続く言葉がない。
救われた王子の前で、祖先を持たない女の顔はまだ変化を続けていた。どの血にも属さない身体を決められず、瞳の色も指の数も、瞬きのたびに別の形へ揺れていた。