試料Bを捨てる
万里花は、試料Bのふたを閉め忘れた。
化粧品会社の試験室。保湿クリームの安定性を測るため、同じ配合を三つの容器に分けていた。昼の測定後、Bだけが十分ほど開いたままになり、室内の乾いた空気に触れた。見た目は変わらない。数値も、たぶん大きくは動かない。
記録しなければ、そのまま試験を続けられる。
採取からやり直すと、結果が一日遅れる。先週も器具の洗浄不足で再試験を出したばかりだった。
万里花は失敗をした日、昼休みを使ってやり直す。
休んでいないことを誰にも言わず、予定どおりの結果だけを渡す。それが責任の取り方だと思っていた。空腹で手が震え、別の試料を落とした日にも、同じことをした。
時計は十二時四十七分。休憩は十三時半まで。
万里花は新しい容器へ手を伸ばし、白衣のポケットから記録用紙を出した。
《試料B、十二時三十二分から四十二分まで開放状態》
時間を正確に書く。原因欄には、《ふた閉鎖の確認漏れ》。
判定欄の「継続可」に丸をつけたくなったが、「廃棄・再採取」へ丸をつけた。
主任の机へ用紙を置くと、ちょうど戻ってきた主任が読んだ。
「AとCは続行。Bだけ明日取り直し」
「はい」
それ以上の会話はなかった。試験予定表には、翌日の枠が一つ増えた。万里花はその赤い予定を見て、消したくなる手をポケットへ戻した。万里花は、怒られなかったことを免罪符にしないよう、唇を噛みかけた。代わりに奥歯を離した。
廃棄容器へ試料Bを移す。白いクリームは、正常なものと同じようにゆっくり落ちた。捨てるには惜しいほどきれいだった。
だからこそ、見た目でごまかさないための記録がある。
万里花は手を洗い、社員食堂へ向かった。
売り切れ間際の定食を受け取り、窓際の席に座る。再試験の手順を頭の中で組み始めたが、箸を置いて、まず味噌汁を一口飲んだ。
試料Bは捨てた。昼休みまで一緒に捨てる必要はなかった。
その考えを立派な教訓にはせず、万里花は温かいうちにご飯を食べた。