赤い糸をほどく店

蜘蛛獣人ユラの右手首から、一本の赤い糸が伸びていた。

 糸の先は王都一の仕立屋の針箱へ結ばれ、店主が針を取るたび、八本の指が勝手に動く。

「戴冠礼服を夜明けまでに仕上げろ」

 命じられたユラは三日眠らず、金糸を縫い続けた。指先から血がにじんでも、赤い糸は緩まない。

 そこへ旅の裁縫師エステルが、破れた外套を抱えて訪れた。

「修繕は後だ。見ての通り忙しい」

 店主は笑い、譲渡用の糸巻きを見せる。

「この獣人が欲しいなら売るぞ。あんたの針箱へ結び替えれば、一生ただで縫う」

 エステルはユラの手元を一目見て、外套を机へ置いた。

「その糸、縫い目ではなく結び目が問題ね」

 赤い糸を切れば、ユラの心臓も止まる。だが糸は店主の針箱へ、所有契約と同じ返し縫いで留められていた。

 エステルは小さな糸ほどきを差し込み、最初の一目を逆から起こす。

「やめろ! 外せば礼服までほどける!」

「服と人を同じ糸で縛ったのが間違いよ」

 一目、二目。

 店主が針箱を奪おうとするたび、エステルは先回りして結びを緩める。最後の一目だけはユラの手首側に残った。

「これは、あなたが引いて」

「私が?」

「最後まで他人にほどかれたら、自由になった実感がないでしょう」

 ユラは震える指で赤い糸をつまんだ。

 店主が命令を叫ぶ。指は一瞬硬直したが、彼女は自分の意思で糸を引き抜いた。

 赤い一本が床へ落ちる。

 礼服は崩れず、所有契約だけが細かな灰になった。

「私の針箱へ移すつもりはない。出口はあちら」

 エステルは破れた外套を抱え直し、別の店を探しに出た。

 ユラは反対の通りへ歩いていく。

 翌朝、宿の戸口でエステルが目を覚ますと、外套が椅子へ掛けられていた。裂け目は銀糸で美しく繕われている。

 その隣でユラが、新しい料金表を広げた。

「修繕代は銀貨三枚。共同で店を出すなら、利益は半分」

「ずいぶん強気ね」

「自由な職人ですから」

 エステルが銀貨を置くと、ユラは誰にも引かれない糸を針へ通した。

 赤い糸をほどいた店で、対等な二人の最初の縫い目が始まった。