赤い非常ボタン
非常ボタンを押したのに、列車は止まらなかった。
終電の車内で財布を奪われ、犯人を追って先頭車両へ行った私は、車掌に取り押さえられた。事情を説明しても信じてもらえず、非常ボタンへ手を伸ばすと、車掌は腕を捻り、床へ押し倒した。
終点の駅員室で、私は腫れた肩を見せた。肩の痣は円く、車掌に掴まれた指の跡だと主張した。駅員は、痣の形が車内の手すりの固定金具に似ていることを黙って記録していた。
「車掌は犯人を逃がしたんです。仲間かもしれない」
財布を奪った男の顔は見ていないのに、黒い帽子と灰色の上着だったと細かく答えた。それは私が駅へ置き捨てた自分の服装だった。
手には血の付いた切符を握っていた。改札印が二つ重なっているのは、途中駅で一度出場したからだと説明した。
駅員が、車内から外された非常ボタンのカバーを持ってきた。赤い汚れは押す面ではなく、壁に接する裏側に付いている。私が強く押した際に染み込んだのだろう、と答えた。
車掌は救護室にいる。額を七針縫い、意識が戻っていないという。私を押さえつけるとき、自分で転んだのだ。
私が盗まれたと訴えた財布は、救護室へ運ばれた車掌の上着からではなく、私の捨てた灰色の上着から見つかった。
鉄道警察がホームの映像を再生した。私は始発駅で、酔って眠る乗客の隣に座っている。列車が発車すると、その財布と上着を抜き取り、乗客の切符を自分のポケットへ入れた。
次の映像では、目覚めた乗客に気づかれ、先頭車両へ逃げている。車掌が進路を塞ぐと、私は非常ボタンのカバーを外し、金属板で額を殴った。裏側の赤い汚れは、そのとき飛んだ車掌の血だった。
二重の改札印は途中下車の跡ではない。私の切符と、奪った乗客の切符を重ねて握っていた跡だった。
列車が止まらなかったのは、非常ボタンが壊れていたからではない。
私がボタンを押さず、外したカバーを武器にしたからだ。
財布を盗まれ、乱暴な車掌に傷つけられた乗客ではない。被害者の切符を握ったまま、車掌まで襲った加害者だった。