返事をしない一分間

朱里は一日じゅう、人の声を聞く仕事をしている。

 質問。苦情。保留音。謝罪。復唱。ヘッドセットを外しても、耳の奥には誰かの言葉が薄く残った。

 その夜、仕事着へ飲み物をこぼし、午前一時半のコインランドリーへ来た。

 静かではなかった。

 洗濯機が水を吸い、乾燥機が低く回り、空調が天井から長い風を吐く。外では雨が自動販売機の屋根を細かく叩いている。

 それでも、どの音も返事を求めなかった。

 朱里はイヤホンを耳へ入れた。帰りの電車でも、部屋へ着いてからも、いつも何かを流している。会話の切り抜き、朗読、雨音。誰かの声で耳を塞がなければ、仕事で聞いた言葉が戻ってくるからだ。音楽を流そうとしたが、充電は切れていた。黒い画面に「0%」と出て、すぐ消える。

 仕方なく、機械の音を聞いた。

 ごう。

 ざあ。

 しゅう。

 隣の乾燥機では、金属の留め具が回るたび内側へ当たっていた。

 かん。

 ごう。

 かん。

 ごう。

 先客らしい人が外から戻ってきた。灰色の帽子をかぶり、紙袋を抱えている。音に気づくと扉を開け、洗濯物の中からベルトのついた服を探した。留め具を内側へ巻き込み、もう一度機械を動かす。

 かん、という音だけが消えた。

 人は朱里を見ず、窓際へ立って紙袋のパンを食べた。袋が小さく鳴り、甘いバターの匂いが一度だけ空調へ乗った。食べる速さも、待つ時間も、その人だけのものだった。食べ終えると、乾燥を待たずにまた外へ出た。

 店内には、ごう、ざあ、しゅう、だけが残った。

 朱里は、音が一つ減ったことに耳を澄ませた。静けさは無音ではなく、余計なものが少しずつ外れていくことなのかもしれない。

 自分の洗濯機が止まった。

 電子音が三回鳴る。

 ぴい。

 ぴい。

 ぴい。

 そのあと、何も続かなかった。返事をしなくていい。説明もしなくていい。

 朱里はすぐ立ち上がらず、黄色い椅子に一分だけ座っていた。外の雨と、空調と、遠い乾燥機の回転がある。

 終了したものを終了したままにしておく一分は、思ったより長かった。焦って扉を開けなくても、服は逃げず、電子音も催促を繰り返さなかった。

 仕事着を取り出し、家へ帰る。

 部屋は静かだろう。けれど今夜の朱里には、その静けさへ返答する必要がなかった。