返却口の向こう側
鞍馬口惣一は、特別閲覧室から消えた。
閉館後の県立図書館で、鞍馬口は未公開の日記を調べていた。午後九時、司書の帯屋玲奈が資料を届け、学生の猿渡俊英と保守員の左雨森達朗は廊下で待った。閲覧室の扉は帯屋が施錠し、三人はガラス越しに鞍馬口の背中を見ていた。
九時十分、書架の陰で何かが倒れる音がした。帯屋が扉を開けると、机に日記だけが残り、鞍馬口はいなかった。窓はなく、壁の返却口は高さ三十二センチしかない。返却口の向こうでは、閉館後も自動搬送機が本を地下の仕分室へ運んでいた。
帯屋は「人が入ればセンサーで止まります」と言った。
私は返却口と運転記録から、三つだけ確認した。
特別閲覧室では、利用者が資料を持って扉へ近づけば警報が鳴る。そのため三人は、鞍馬口も扉だけを出口として考えるはずだと思っていた。だが図書館には、人ではなく本を部屋の外へ出すための道が常に動いている。
一つ。通常は本を分ける二枚の棚板が搬送箱から外され、閲覧室の書架裏に立てかけられていた。
二つ。午後九時七分、搬送機の過荷重センサーが六十二キロを検知し、三秒だけ非常停止していた。
三つ。返却口のゴムローラーには、鞍馬口の灰色の上着と同じフェルト繊維が帯状に絡んでいた。
猿渡が自分の肩幅を測り、「三十二センチでも、横向きなら」と呟いた。
「棚板を外した搬送箱の内寸は高さ四十四センチです。鞍馬口さんは上着を脱ぎ、片腕ずつ返却口へ通して箱に潜った。左雨森さんが地下で停止を解除し、仕分室から出したのでしょう」
左雨森は黙って工具袋を置いた。鞍馬口は日記に記された公文書改竄の証拠を外部へ持ち出すため、調査を妨げる者の目を部屋へ引きつけたのだという。日記そのものは机に残し、必要な頁だけ記憶していた。
外された棚、六十二キロ、フェルトの糸。三つは返却口を、人間用の通路へ変えた痕跡だった。
私は静かに回り続けるベルトを止めた。
「本を外へ出す設備なら、人も外へ出せる。ただし今夜、返却されたのは本ではなく、読んだ人のほうでした」